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第12章 記憶

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冒頭に

知覺するとは常に思ひ浮べる事だ。

とあります。ここで「思ひ浮べる」と訳された言葉は se représenter で、第六章の「空間」の冒頭にも出て来ました。

第1段落の真ん中あたりに、

あの並木道を、正しく知覺する爲に、嘗てした散歩の事だとか、以前あの並木道の事を考へた事があるとかと思ひ出す必要はない。

とありますが、次ぎのやうな意味だと思ひます。

あの並木の小道を正しく感じ取るために、私がしたある散歩を思ふ必要はなく、まして、過去のある時点の散歩を思ふ必要があるわけではない。

記憶にも、日常生活に役立つ「敏活な記憶」と夢見るやうに過去を思ひだす「放心した記憶」があるのだといふ議論は、おもしろいと感じました。

第2段落の後半は難解です。

存在し而も存在しない同じ物、もつとくはしく言へば、姿を隱してゐるが、時間の或る條件の下では姿を現す同じ物を、協力して取捨するといふこの不思議な關係から、既に、時間といふものがどうやら限定されてゐると言へる。

原文の語順をなるべく保ちながら訳してみると、かうなります。

これは、同時に引き留めたり突き放したりするやうな独特の関係により、既にあるやり方で時間といふものを限定する。同じ物があつたりなかつたりする。より上手い言ひ方をするなら、その物は無いのだが、ある時間の条件の下では有るのだ。

第3段落の始めの方に、

位置、道路、運動、時間、かういふものは、實際には切離すことが出來ない。

といふ文がありますが、道路といふのは、経路とか道筋と訳した方が分かり易いでせう。

終はりの辺りに、

單に外部に過ぎない外部とは、誰にとつても外部ではあるまい。内部の關係も亦そこに必要だ。それによつて遠近相寄つて分割出來ぬ一つの世界が出来上るのである。

といふ部分はアランらしい言ひ方だし、名訳だと思ひます。


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