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第9章 魂の立派さ

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最初の段落でアランは、魂の立派さとは

人間の弱點についても正確な尺度を持ち、これに對して寛にも酷にも偏する事なく、最も深い意味で正しい態度を取るものでなければならぬ。

と言ひます。これがこの章の主題で、論旨は明確だと思ひますので、細かな話になりますが、ご参考までに翻訳に関することを書いておきます。

先づ、上に引いた文で「正しい」と訳されてゐるのは juste といふ言葉で、正義に適つた、公平である、といふ意味と、丁度良いといふ意味を持つてゐます。

この段落の真ん中当たりに

精神を獸の手に渡す性癖があるのだ。

とありますが、

動物に精神を持たせる傾向があるのだ。

と読む方が良いと思はれます。

同じ段落に、スタンダールの「赤と黒」からの引用が出てきます。原文では、

J'ai le malheur d'être irascible; il se peut que nous cessions de nous voir.

です。これは「赤と黒」の第2部第1章「田園の楽しみ」の後半に出てくるピラール師の言葉なのですが、アランはこれを記憶に頼つて書いたと見えて、スタンダールの書いたものとは、後半が少し違つてゐます。

il est possible que vous et moi nous cessions de nous parler.

といふのが元の文で、桑原武夫、生島遼一訳では

わしは残念なことにかんしゃくもちで、どういうことで君とわしとはおたがいに話をしなくなるかもしれないからな。

となつてゐます。

アランの文では se peut、スタンダールの原文は est possible と表現は違ひますが、いづれも可能性を表す言ひ方で、小林訳のやうに

會はない樣にする事は出來ますよ。

と訳すこともできますが、あり得るといふ意味で、桑原・生島訳のやうにも読めて、私はこちらの方が良いと思ひます。

第二段落に、お祖母さんに「自分も死んだ方がましだつた」と言ふ小娘の話が出てきます。段落の真ん中当たりに「禮儀がかういふ小娘の反抗を緩和してくれる」と訳された部分がありますが、telles réactions といふ部分は、小娘の発言を笑ふといふ反応を指すとも読めるでせう。

最後の段落の最初にある「幸福さうな表情」といふ言葉 les bonheurs d'expression は<素晴らしい表現>とも読めます。同段落の「整調」(プレパラシオン)と「音程」(ランプリサアシュ)といふ二つの言葉ですが、音楽用語としては、前者は不協和音の前に導入として置く音、後者は高音と低音の間に置く音を指すやうです。この文脈の中では、主題と主題の間のつなぎを意味するやうにも読めるのではないでせうか。


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