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小林秀雄文庫について


小林秀雄が持つてゐた大量の蔵書の一部は、成城学園に「小林秀雄文庫」として保存されてゐます。その経緯は、「成城国文学」に掲載された青柳恵介さんの論文に詳しく書かれてゐます(「教育研究所にて保管している「小林秀雄文庫」について」、『成城国文学』20巻2004年3月)。これによれば、昭和五十一年に、山の上の家から八幡様の前に引越した際に、蔵書の大半は処分されたが、残された1490冊については、白洲明子さん、信哉さんから、成城学園の教育研究所に寄贈されたのださうです。なほ、美術書は、レコードと共に清春の白樺美術館に贈られたとの事です。

小林秀雄の残した本には、傍線が多数引かれてをり、稀ではありますが、短い書き込みも見つかります。さうした個所を集めてみると、何かおもしろい事が分るのではないか。そんな考へも浮かびますが、上記の青柳さんの論文には、以下のやうな一節があります。

ダンボール箱に番号をつけ、該当する番号のカードにその箱に収める本の書名を記す作業から本を運ぶ作業まで、明子さんは終始手伝って下さった。「本は活用されてはじめて価値があるのだから」と言って下さったが、同時に活用の方法に一つの条件をつけられた。
「父が最も嫌がっていたこと」として、明子さんの強く言明されたことは大略次の如きことである。自分の公表した文章はおろそかにされ、断片的に書いたメモや葉書の一文を継ぎ接ぎして自分の文章が引用されること。また、とるに足りない瑣細な資料から何事かを詮索されることである。いささか、飛躍するようであるが、私は明子さんの言を聞きつつ、小林氏の「西行」の一節を反芻していた。《凡そ詩人を解するには、その努めて現さうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとし隠さうとしたところを詮索したとて、何が得られるものではない。》さもありなん、小林氏の意志ははっきりご家族に受けつがれている、と感じた。

傍線箇所の蒐集は、まさに、上に引いた、小林秀雄が「最も嫌がつてゐたこと」そのものだと言ふべきでせう。また、小林秀雄は、時に本にメモを挿む習慣があつたらしいのですが、さうしたメモは、ご家族が全て処分されたのださうです。だとすれば、傍線や書き込みの持つ意味は、さらに小さなものになると考へるべきでせう。

とは言へ、小林秀雄自身が引いた傍線があるのとないのとでは、本を手に取つて見たときの印象が大きく異なることは、否定できません。

併し、音樂の方に上手にからかはれてゐさへすれば、手紙にからかはれずに濟むのではあるまいか。手紙から音樂に行き着く道はないとしても音樂の方から手紙に下りて來る小徑は見付かるだらう。

この『モオツァルト』の一節を気ままに応用すれば、本文を尊重することさへ忘れなければ、そこから本に引かれた傍線に下りて行くことで、何かを得ることができるかも知れない、とは言へないでせうか。以下にご覧いただくのは、さうした思ひから書いた感想文です。


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