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フロム『革命的人間』


エーリッヒ・フロムの『革命的人間』は、谷口隆之助訳により東京創元社から現代社会科学叢書の一冊として、昭和40(1965)年6月に出されたものです。「小林秀雄文庫」の多くの蔵書からこの本を3冊目として選んだのは、私がフロムを愛読してゐるといふ個人的な理由からで、この人が小林秀雄にとつて重要な意味を持つてゐたからではありません。これまで小林秀雄全集に収められた作品には、フロムの名は一度も出て来ません。

エーリッヒ・フロム(1900年3月23日 - 1980年3月18日)は、マルクスとフロイトの思想を元に社会を分析したフロイト左派と呼ばれる人達の一人で、1934年にドイツから米国に移住してゐます。自由といふ孤独に耐へきれず全体主義に走る現代人の心理を分析した『自由からの逃走』(Escape from Freedom, 1941)が良く知られてをり、真に人を愛するには人格の成熟が必要だと説いた『愛するといふこと』(The Art of Loving, 1956)は世界的なベストセラーになりました。

『革命的人間』の原著は"The Dogma of Christ"といふ論文集で、1963年に出されてゐます。日本語訳では、別の論文である「革命的人間」を題名にしてゐます。その目次を下に示します。「キリスト論教義の変遷」と訳されてゐるのが、原著の題名の論文です。数あるフロムの著作の中から、小林秀雄が何故この本を選んだのかは分りませんが、関係のあつた東京創元社から持ち込まれたのではないかと想像されます。書評でも書いて貰はうと考へたのかも知れません。

著者まえがき
現代の人間情況
性と性格 19
革命的人間 45
精神分析は科学か、党派か? 69
医学と現代人の倫理 87
心理学の限界とその危険性について 113
予言者の平和観 125
キリスト論教義の変遷 139
訳者あとがき 241

フロムは、小林秀雄とほぼ同じ時代に生きて、マルクスやフロイトの思想を元に、現代社会の歪みを批判した人でした。ユダヤ教、キリスト教についての造形も深く、スピノザもよく読んでゐたやうです。その説くところには、小林秀雄と共通した部分も多くあります。

とは言へ、小林秀雄は『革命的人間』を余り熱心に読まなかつたかも知れません。これまでに取上げた二冊では、複数の筆記用具で傍線などが付されてゐましたが、この本では青インクで印が付けられてゐるだけです。本棚に残されてゐたからには、何か感ずるところがあつたのでせうが。

この本には20個所ほどに傍線等が付されてゐるのですが、そのうちの幾つかを抜き出してみませう。原文の傍点は太字にしてあります。

ひとにたいする愛もまた稀有の現象である。自動人形は愛をもたない。疎外された人間は配慮をもたない。いわゆる愛の専門家たちや結婚相談の担当者たちが称賛するのは、それぞれが正当な技術でおたがいを操作しあう二人の人間の間の連繋なのである。その愛は本質的には自己中心癖なのであり、堪えられない孤独からの避難所にすぎない。
(「現代の人間情況」13頁)
この批判的気分に加えて、革命的人間は、権力への特殊な関係をもっている。彼は夢想家ではないから、権力がひとを殺し、強制し、ゆがめることのできるものであることを、知らないのではない。しかし彼は別の意味で、権力にたいして特殊な関係をもつのである。彼にとって、権力は決して聖化されないものであり、決して真理や道徳や善の役割をしてはならないものである。これは今日のもっとも重要な、すくなくとももっとも重要な問題のひとつである。すなわち、権力にたいするひとの関係の仕方の問題である。それは、権力とはなにかということを知ろうとする問題ではない。またそれは、権力の役割と機能とを軽視する──レアリズムの欠如の問題でもない。それは、権力が聖化されるか否か、また、ひとは権力によって道徳的に動かされるかどうか、の問題である。権力によって道徳的に動かされるひとは、決して批判的気分に生きているひとではないのであり、決して革命的人間ではない。
(「革命的人間」60頁)
今日の多くの科学者たちは、そんなことはたわごとだと考えており、《人間の本性》というようなものは存在しないと考えている。彼らは、すべてはわれわれの生活環境に依存する、と考えているのである。もしあなたが首狩り族ならば、あなたはひとを殺すことをこのみ、狩りとった首を縮ますことに喜びを感じる。またもしあなたがハリウッドで生活していれば、あなたは金もうけをこのみ、新聞にのることを喜ぶ。・・・・・・というのである。これはすべきだ、これはすべきでない、というようなことを命じるものは、決して人間性のうちにあるのではない、と彼らは信じている。精神分析家や精神医学者たちは、それとは異なった報告をしうるであろう。彼らは、人間の本性に属し、そして、われわれの身体と同じように、もしそれ本来の法則が犯されるときには必ずなんらかの反応を示す基礎的な要素が、人間のうちにあることを、表明しうるのである。もしわれわれの身体に病理的経過が生じれば、われわれは苦しみを感じる。それと同じように、もしわれわれの心に病理的経過が生じれば、──すなわち、人間本性のうちに深く染みこんでいるなにものかを犯すようなことがわれわれの心のうちに生じれば──また別のことが生じる。すなわち、われわれは良心のやましさをもつ。
(「医学と現代人の倫理」90頁)
ひとは、自分自身をも他人をも、物として、たんなる商品として、体験する。彼は生命力を有利に投資すべき資本として体験するのであり、そしてもしそれが利益をあげるならば、彼はそれを成功と呼ぶのである。われわれは、人間のように動く機械をつくり、そして機械のように働く人間をつくりだす。十九世紀の危険は、奴隷になることにあった。二十世紀の危険は、奴隷になることではなく、われわれがロボットになってしまうことにある。
(「医学と現代人の倫理」100頁)
子供たちが何度くりかえしてもあきずにまりと遊ぶことができるのは、彼らがそれについて考えるのではなく、それを知るからなのであり、彼らがくりかえしてそれを知ることができるというのは、すばらしい体験である。
ひとりのひと、一本の木、また他の何かの現実を知っており、そしてその現実に応えるこの能力は、創造性の本質である。私は、男も女もそしてわれわれ自身も、このように知りそして応えることができるようになることが、今日の倫理問題のひとつであると信じている。このことのもうひとつの側面は知るという能力である。すなわちひとりのひとを対象として知るのではなく、関係という行為のうちにおいて知ることである。いいかえれば、われわれは、自然科学的な方法にのみよらずに、人間を理解する新しい人間の科学のための基礎をすえなければならない。それは、みずから固有の位置をもち、そしてまた人類学や心理学の多くの領域にたいして固有のものであるが、しかしまた、愛の行為において、感入の行為においてひとをひととして見る行為において、それは独特のものである。すべてこれらの目的よりもより重要なことは、人間をもう一度正しい位置にもどすことであり、手段を手段とし目的を目的とし、知性の世界や物的生産の世界におけるわれわれの達成が、ひとつの目的のための手段に供されるときにのみ、意味をもつ、ということを認めることである。十分な意味での人間の誕生ということは、ひとが十分に自分自身となることであり、十分に人間らしくなることである。
(「医学と現代人の倫理」108頁)
心理学は、人間がなんでないかということをわれわれに示してくれる。しかし、人間とはなんであるか、われわれのひとりひとりがなんであるか、ということについては、心理学は何をも語り得ない。人間の魂は、各個人の独自の核は、そのままとしては決してとらえられず、また記述され得ないものである。それは、それがただ誤解ではないという意味においてのみ知られ得るのである。心理学の公的な目標は、このようにゆがみや幻想をとりのぞくという消極的なものである。決して人間存在についての完全な知識を獲得するという積極的なものではない
しかし、人間の秘密を知るためのもうひとつの道がある。この道は思惟によらず愛によるのである。愛は他のひとへの積極的な浸透であり、そこで知ろうとする欲望は合一によって終わるのである。(これが ahaba に対する daath という意味での愛ということの聖書的な意味である)。融合の行為において私はあなたを知り、私自身を知りあらゆるひとを知る。──そして私は思惟においては何も知らない。
(「心理学の限界とその危険性について」118頁)
人間を知るという問題は、神を知るという神学的な問題と平行している。消極神学は、神についての積極的な陳述が不可能であるということを前提としている。神について知りうることは、ただ神がなんでないかということだけである。マイモニデスがいったように、神がなんでないかを知れば知るほど、私はますます深く神を知るのである。またマイスター・エクハルトもこういっている。《人間はたとえ神がなんでないかということに十分目ざめているとしても、一方神がなんであるかということは知り得ない。》このような消極神学のひとつの帰結が神秘主義なのである。もし思惟において、神についての十分な認識をもち得ないとするならば、もし神学が最善のかたちにおいても消極的なものであるならば、神についての積極的な認識は、ただ神との合一の行為においてのみ達成されうるわけである。
(「心理学の限界とその危険性について」120頁)
心理学の限界について語ることは、この限界を知らない場合に生じる危険を指摘することにある。現代人は孤独であり、おびえており、そしてほとんど愛することができない。隣人に近づこうとしながら、隣人とあまりにも離れすぎており、無関係の状態にあるので、近づくことができない。隣人との表面的な結びつきは種々あり、たやすく維持されるが、核から核への《中心的関係》はほとんど存在しない。ひとは接近を求めて知識を得ようとする。知識を得ようとして心理学を見いだす。心理学がおたがいのあいだの愛や親しさや結合のための代用物にされるのである。むしろそれは、孤独な疎外されたひとのための隠れ家となるのであり、決して結合の行為への一歩とはならないのである。
(「心理学の限界とその危険性について」121頁)

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