ホーム >  小林秀雄の読んだ本 >  全集など

全集など


残された本をざつと見渡すと、幾つかの全集が目につきます。愛読者の方はよくご存じのやうに、小林秀雄は、全集を読むことを勧めてゐました。『讀書について』(昭和14年)では、かう書いてゐます。

或る作家の全集を讀むのは非常にいゝ事だ。研究でもしようといふのでなければ、そんなことは全く無駄事だと思はれ勝ちだが、決してさうではない。讀書の樂しみの源泉にはいつも「文は人なり」といふ言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するには、全集を讀むのが、一番手つ取り早い而も確實な方法なのである。
(第五次全集、第六巻77頁)

「小林秀雄文庫」には、誰の全集が残されてゐるのでせうか。以下に「全集」といふ名がついてゐるものを列挙してみます。同じ「全集」でも、一巻のものから数十巻のものまで、量は様々です。(「全集」以外の名称のものは括弧内に書きました。)

新井白石 上田秋成 岡倉天心
荻生徂徠 鏑木清方 賀茂真淵
熊沢蕃山 契沖 津田左右吉
中江藤樹 中原中也 富士谷御杖(集)
藤原惺窩(集) 正宗白鳥 本居宣長
アラン(著作集) ベルグソン G・K・チェスタトン(著作集)
ジャン・コクトー ドストエフスキー エリオット
フロイド(選集) ウィリアム・ジェイムズ(著作集) ユング(著作集)
パスカル プラトン ヴァレリー
ヴィリエ・ド・リラダン

小林秀雄自身の全集は、第4次の「新訂小林秀雄全集」がありました。日本人の全集の多くは『本居宣長』関連のものです。

この他に、フランスのガリマール社が出してゐる Pléiade といふ叢書は、上質の紙を使つて1冊に1千頁以上を収め、フランスのみならず、世界の著名人の著作を集めてゐますが、この中で小林秀雄が残してゐたのは、次のものです。

アラン(3冊) ボードレール(作品集) デカルト(作品と書簡)
フローベール(作品集2冊) マラルメ(全作品) メリメ(小説集)
プラトン(全作品2冊) ランボー(全作品) ヴェルレーヌ(全詩作集)

出版社は別ですが、似たような体裁の本としては、ベルクソンの著作集も残されてゐました。ベルクソンについては、この他に主な著作全ての原著の単行本があり、死後に出された "ECRITS ET PAROLES" も3冊揃つてゐます。

以上のリストを見ると、多くは小林秀雄の作品で一度は言及された人達ですが、例外は、鏑木清方と富士谷御杖の二人です。その他の人でも、全集は残されてゐるのに、作品には殆ど名前が登場しない場合があります。チェスタトンはその例で、昭和24年に「芥川龍之介作品集」の内容見本のために書いた『感想』に、次の一文があるだけです。

芥川氏の作品は、學生時代非常に愛讀した。自殺された時、「芥川龍之介の美神と宿命」といふ文章を書いた。大學生時代である。今はどこへやら紛失して了つたが、僕の最初の評論である。内容は、もうよく覺えてゐないが、當時、バアナアド・ショオを論じたチェスタアトンの論文にひどく感心して、それを頭において芥川論を書いたのはよく覺えてゐる。
(第五次全集、第九巻128頁)
ヴィリエ・ド・リラダンも、昭和52年に書かれた「ヴィリエ・ド・リラダン全集」の内容見本に名前が出てくるだけですが、この文章を読むと、小林秀雄にとつては、思ひ出深い人であつたやうです。
學生時代、フランスのサンボリストの文學を耽読たんどくしてゐた。手前勝手な夢想を追ふひどく怠惰な學生だつたので、學校の講義などは、出來るだけ敬遠する事にしてゐたが、辰野先生のリイル・アダンの「コント・クリュエル」の講義には、その魅力に心を奪はれてゐた。
(第五次全集、第十三巻395頁)

(なほ、綴りを見れば、「リイル・アダン」といふ二語の続きなのですが、普通には続けて「リラダン」と読まれるやうです。)

この他、メルロ・ポンティの主な著作も、ほぼ揃つてゐます。また、全巻が揃つてはゐませんが、全集や著作集が2冊以上あるのは、ヘーゲル、マルセル、河上徹太郎、手塚富雄です。


ホーム > 小林秀雄の読んだ本 > 全集など

Copyright (C) 2010 吉原順之