歴史的仮名遣ひを用ゐる理由


このサイトでは、歴史的仮名遣ひを使用してゐます。正確に言へば、大和言葉の表記に歴史的仮名遣ひを用ゐて、字音については、原則、現代仮名遣ひにするといふ丸谷才一さんの表記法に倣つてゐます。

歴史的仮名遣ひは、大和言葉に限れば、それほど複雑なものではありません。他方で、現代仮名遣ひに比べて、文法的にもすつきりし、言葉の歴史にも関心が深まるといふ大きな利点を持つてゐます。

文法上の利点は、動詞の五段活用で、はつきりと分かります。「書く」といふ動詞に例をとると、現代仮名遣ひでは、未然形で「書かない」と「書こう」のやうに、「か」と「こ」の二つの語尾が生じます。このため、古文では四段活用なのが五段活用になつてゐる訳です。歴史的仮名遣ひでは、「書かう」ですから、未然形語尾は「か」の一つだけです。また、「書かう」は「書かむ」の音便だと知れば、言葉の歴史的な変化にも興味が湧くのではないでせうか。

歴史的仮名遣ひを覚えたい方には、福田恆存氏の『私の國語教室』をお勧めします。福田氏の政治的な意見には違和感を持たれる方も多いかと思ひますが、私自身の経験から、この本は、さうした方にも有益なものだと信じてゐます。表音主義を掲げる現代仮名遣ひが、実は様々な不合理を抱へてゐることから説き起こして、「語に随ふ」といふ歴史的仮名遣ひの原理を述べ、その習得法を説明するといふ懇切丁寧な本で、日本語(福田さんは「國語」といふ言葉を使つてをられますが)の音韻の変化や特徴にも言及してゐます。日本語に関心を持つ方には、是非、一読して頂きたい本です。

仮名遣ひについては、明治の頃にも議論がありました。そのときの森鷗外の主張が『假名遣意見』といふ文章で残されてゐます。鷗外も歴史的仮名遣ひ派で、「假名遣と云ふ者を私は外國の Orthographie と全く同一な性質のものと認定して居ります。」と言つてゐます。尤も「一體假名遣を歴史的と稱するのは或る宣告を假名遣に與へるやうなものであつて私は好まない。」とのことで、ただ「假名遣」と呼んでゐます。「歴史的」といふことばは過去の遺物といふ印象を与へると考へたのでせう。

『假名遣意見』を読んで興味深いのは、この時代でも、仮名遣ひが確立したものかどうかについて議論があつたといふ点です。例へば、「一體本會の状況を觀ますると云ふと、そもそも假名遣と云ふものの存在からして疑はれて居る。有るか無いかの有無の論、少くも定つて居るか定つて居らぬかと云ふ定不定の御論があるのである。」とあります。鷗外自身の意見は、「自分は假名遣と云ふものははつきり存在して居るもののやうに認めて居ります。契冲けいちゆう以來の古學者の假名遣と云ふものは、昔の發音に基いたものではあるけれども、今の發音とくらべて見ても其の懸隔が餘り大きくはないと思ふ。即ち根底からこれを破壞して新に假名遣を再造しなければならぬと云ふ程懸隔しては居らぬやうに見て居ります。」といふものです。

そして、かう述べてゐます。「我假名遣と云ふものは Sanskrit に較べてもそんなに劣つて居らぬやうな立派なものであつて、自分には貴重品のやうに信ぜられまする。どうか斯う云ふ貴重品は鄭重ていちように扱つて、縱令たとひそれに改正を加へると云ふにしても、徐々に致したいやうに思ふのであります。」

この『假名遣意見』は、青空文庫でも読むことができますので、ご参照下さい。


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