『感想』をたどる 番外編

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ベルクソン論『感想』を、引用されたベルクソンの文章に注目しながら辿る作業の、番外編として、この中断された作品全体についての、私の感想を述べてみたいと思ひます。

『感想』といふのは、不思議な作品です。何故、あのやうな読みにくい作品になつたのか、さうした読みにくさを辞さない書き方で、何を目指してゐたのか、何故、中断したのか、様々な疑問が浮かびます。一つづつ、考へてみませう。

1 何故、あのやうな読みにくい作品になつたのか。

『文學界』2002年9月号の、福田和也、山城むつみ、岡崎乾二郎の三氏による座談会に、こんな発言があります。

福田氏 ただ、『本居宣長』は読めるようにはなっている。ベルグソンの場合は読めるようになっていない。(219頁)

山城氏 率直に言って、『感想』は小林を考える上ですごく大事ですが、『感想』そのものを読物として読むときには、僕はやはりどこか我慢して読んでいるからね。(232頁)

これは、多くの読者の率直な感想だと思ひます。それほど読みにくい作品になつた理由の一つは、この作品の、かなりの部分が、ベルクソンの文章の翻訳あるいは要約と言ふべきものから成つてゐる、といふことでせう。

どんな名人が訳しても、原文の流れや生き生きとした調子を別の言語で再現することは難しい。一度、原文といふ植物が育つ前の種の状態まで遡り、そこから芽が出て、文章に育つ過程を、移す先の言葉といふ異なる土壌でやり直す、とでも言ふべき作業が必要になります。さうした努力を払つても、文法や単語の含意の違ひなどによつて、うまく行くとは限りません。

これに加へて、ベルクソン論としての全体の構造が明らかにされてゐない、といふことも、読みにくさの一因でせう。これは、小林秀雄の文章で、一般的に言へることですが、体系的、論理的な枠組みを決めてから書き始めてゐる、とは思はれません。雑誌への連載といふ形式上の制約もあるでせうが、むしろ、意識的に、さうした書き方を避けてゐると見えます。第三章には、かう書かれてゐます。

實は、雜誌から求められて、何を書かうといふはつきりとした當てもなく、感想文を始めたのだが、話がベルグソンの哲學を説くに及ばうとは、自分でも豫期しなかつたところであつた。これは少し困つた事になつたと思つてゐるが、及んだからには仕方がない。

この文章も、読み方が簡単ではないもののやうに思はれ、文字どほりに理解してよいのかどうか迷ひますが、確かなのは、小林秀雄が、ベルクソンの主要著作を読み返す作業を始めたことで、『感想』の、特に第七章から第三十一章あたりの文章は、その過程で(再)発見した注目すべき文章を、そのまま、又は、要約して載せて、注釈を加へた、といふ風に見えます。

さうした翻訳や要約は、時には、一つの章全てと言つて良いほど、長い場合もあるのですが、これらの引用を纏める大きな議論の流れが明確には示されてゐないために、何を言ひたいのかが途中で分からなくなつて仕舞ふといふ嫌ひがあります。

また、「ベルクソンそのまま」ではないか、何も新しい知見や意見が書かれてゐないではないか、といふのも、特に、引用の多い前半を読んだ読者が抱く、一般的な感想でせう。ベルクソンの文章が、地の文に溶け込んでゐる書きぶりの部分では、小林秀雄が解説してゐるのか、ベルクソンの語りが続いてゐるのか、迷ひます。ベルクソンを知つてゐる読者には、細かな誤訳や用語の不正確が気になり、ベルクソン自身の本を読んだ方が増しだ、と思ふ人も少なくないでせう。

さらに、全体の構成が分からないので、繰返しが多いと感じる読者もあると思ひます。小林秀雄自身は、次のやうな言ひ方をしてゐるのですが。

て、私の文章は、音樂で言へば、どうもフーガの樣な形で進むより他はないのを、書き出しから感じてゐるのだが、ベルグソンの文章の二重性については、既に書いた。
(第五章)

読みにくさに関連した、もう一つの特徴は、ベルクソンのテキスト以外の話題が殆ど出てこない、といふことです。他の作品では、ドストエフスキーの場合に「作品」と「生活」があつたやうに、伝記的な記述が含まれてゐるのですが、ベルクソン論の場合には、遺言の話が出てくる程度です。書かうにも、材料が見当たらなかつたのかも知れません。

また、ベルクソン以外の人物も、あまり登場しません。『本居宣長』では、契沖、徂徠などの先学や、上田秋成のやうな論争相手が登場して、舞台が賑やかですが、『感想』は、ベルクソンの一人芝居に近いものとなつてゐます。例外的に、モーパッサンやフロイトなどの「ワキ」が登場する章は、他の章よりも読みやすく、小林秀雄の文章も、流れが良くなつてゐるといふ印象を受けるのですが、如何でせうか。

2 読みにくさを辞さない書き方で、何を目指してゐたのか

『感想』が書かれた当時には「殆ど忘れられて了つて」(第二章)ゐたベルクソンについて、一般的な誤解を解きたい、この重要な思想家を蘇らせたい、といふ目的を持つてゐたのは、確かでせう。第三章では、かう言つてゐます。

私の感想文が、ベルグソンを讀んだ事のない讀者に、ベルグソンを讀んでみようといふ氣を起させないで終つたら、これは殆ど意味のないものだらう、といふ想ひが切である。

しかし、ベルクソンの一般的な解説書を書かうとはせず、ベルクソンの文章に密着した、独特の書き方を採りました。それが、独特の読みにくさを生んだのですが、小林秀雄自身が、かうした問題点を意識してゐなかつたとは考へられません。それでも、敢へて、さういふ書き方をしたのは何故でせうか。

『文學界』2002年9月号に掲載された郡司勝義さんの「一九六〇年の小林秀雄」には、平野謙氏による『感想』は「祖述」だ、との批判を受けた、小林秀雄の次のやうな言葉が紹介されてゐます。

ベルグソンを一行でも讀んでゐたら「祖述」かどうか、すぐ判つただらうに、世の中に無責任の横行これに過ぎたるはない。だが、年月が經つて同じことを繰返すのも、この世のことだね、昔、僕が「『罪と罰』について」(昭和九年)を連載したとき、大宅壯一といふ大知識人が新聞で同樣の發言をして僕を嘲つたものだ。彼らは祖述が寧ろ生産的な營みだとは、全く知らないし、知らうともしない。これは僕の發明だといつていいものだ、フランスでは見かけるが、わが國では僕が初めてだ、他にあつたとしたところで僕のやうに工夫をこらしてはゐない。(241頁)

小林秀雄が凝らした工夫といふのが、どの辺りにあるのか、正直なところ、私には、はつきりと見て取ることができないのですが、その一つは、ベルクソンの文章を、いかに読者に伝へるか、といふ問題に係るものだつたと想像されます。

『感想』が、私達が普通に期待するベルクソン論と異なるのは、ベルクソン思想の概要、その歴史的な意義、などの情報が、少なくとも、すぐにそれと分かる形では、書かれてゐない、といふ点でせう。「ベルクソン早分かり」の類とは全く逆です。また、ベルクソンに対する批判的な文章は、一つも無い、と言へるでせう。第三章には、次のやうな文があります。

ベルグソンのかういふ言葉も、彼が、いつたん言葉を投げ棄ててから、拾ひ上げた言葉だと納得しなければ、曖昧な言葉と映るだらう。事實、多くの人々が、ベルグソンの自由の觀念の曖昧と矛盾とを難じた。ベルグソンにしてみれば、豫期してゐた事が起つたに過ぎまい。自由の思想は、言葉では割り切れない。だが、殘念ながら、普通、人は、考へるより語る樣に出來てゐる。

小林秀雄は、ベルクソンの擁護を目指してゐるのですが、そのために、議論は一切しない、とでも決心したかのやうです。ベルクソンについて抽象的に語ることでは、口先だけの議論を増やすだけで、ベルクソンに関する誤解を解くことにはならない、と考へたのでせう。第三十一章では、かう書いてゐます。

彼の簡潔な經驗談は、讀むだけならば直ぐ終つて了ふのだ。文は讀者の経験を要求してゐる。訴へられてゐるのが、單なる知識へではなく、經驗へ、特に或る内的經驗へである、と讀者がはつきり氣附くなら、この短文も、何處へやら果てしなく續くと感ずるであらう。これは、恐らくベルグソンの全集についても言へる事だ。彼の思想の驚くべき特徴である。

言はば、ベルクソンの文章の「心」ではなく「姿」に注目して、哲学書としてではなく「比類のない體驗文學」(第二章)として読むことを目指してゐる、さうした読み方を読者に促してゐるのではないでせうか。そのために、ベルクソンの文章を地の文に組み入れたり、「 」を付けて引用したり、試行錯誤が行はれてゐるやうに見えます。

また、かうした書きぶりは、小林秀雄のベルクソン観に基づいたものであり、ベルクソンについて書くには最適の方法だと考へて採用したものと思はれます。第二十七章にある以下の文章は、ベルクソンの作品を前にした小林秀雄自身の態度を示したものとして読むことも可能でせう。

この考への行き着くところ、當然、ベルグソンには、哲學とは經驗そのものだと言ひ切れた。彼の目指したものは、綜合的な學ではなく、人間的な全體的な經驗であつた。知的なシステムではなく、知的な努力であつた。彼の仕事の方法が定義し難いのは、方法を頼むより先づこれを捨ててみたところから來てゐるとさへ言へよう。實在に近附かうとして、一切の人爲的な機械的な近附き方を拒絶したところで、彼は實在の前に、殆ど手ぶらで立つ。其處で、直觀も悟性も、無垢な力を取返すのであり、其處に、いつも立還つてゐなければ、どんな學も、自ら編んだシステムのうちに死ぬのである。

それでは、『感想』は、ベルクソンの文章を詳しく読むだけの作品なのか。さうではないと、私には思はれます。例へば、第四十九章以下で、ベルクソン思想と量子力学との親和性について述べた部分は、独創性のある部分ですし、小林秀雄が書きたかつた事の一つではないかと思はれます。

更に、未完に終はつたので、断定は難しいのですが、ある一貫した主題を持つて書いてゐたと思はれます。第一章で、小林秀雄は、自らの母親に係る神秘的な経験の反響について、かう述べてゐました。

それは、言はば、あの經驗が私に對して過ぎ去つて再び還らないのなら、私の一生といふ私の經驗の總和は何に對して過ぎ去るのだらうとでも言つてゐる聲の樣であつた。併し、今も尚、それから逃れてゐるとは思はない。それは、以降、私が書いたものの、少くとも努力して書いた凡てのものの、私があらはには扱ふ力のなかつた眞のテーマと言つてもよい。

事件後、發熱して一週間ほど寢たが、醫者のすゝめで、伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した。その間に、ベルグソンの最後の著作「道德と宗敎の二源泉」を、ゆつくりと讀んだ。以前に讀んだ時とは、全く違つた風に讀んだ。私の經驗の反響の中で、それは心を貫く一種の樂想の樣に鳴つた。

『二源泉』で扱はれた主題が、神秘体験、「彼の世」、死後の存続といつた問題であり また、これらと価値観との係りの問題であることを考へると、小林秀雄が『感想』といふ何気ない題の文章で、「何を書かうといふはつきりとした當てもなく」と言ひながら、書き始めたのは、「露はには扱ふ力のなかつた眞のテーマ」そのものであり、ベルクソンが『二源泉』で扱つた問題に他ならない、といふ見方も可能だと思ひます。

「眞のテーマ」を書くためにはベルクソンが手掛かりになる、ベルクソンを徹底的に勉強し直さう、さう考へてゐたのではないでせうか。『本居宣長』に十年以上の歳月をかけたことからしても、五年余り書き続けられた『感想』は、まだ道の半ばであつた、と見ることができるでせう。ベルクソンの著作の中で、心と身体との関係を論じた『物質と記憶』を詳しく論じたのも、『二源泉』へと進む準備であつたとすれば、納得できるのはないでせうか。

3 何故、中断したのか

小林秀雄自身は、岡潔との対談『人間の建設』の中で、質問に答へて、次のやうに述べてゐます。

書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。そのときに、またいろいろ読んだのです。そのときに気がついたのですが、解説というものはだめですね。私は発明者本人たちの書いた文章ばかり読むことにしました。
(第五次全集、第十三巻 172頁)

この「無学」は、相対性理論に関するものを指すと理解するのが素直だと思ひます。第四十九章で、相対性理論をめぐるベルクソンとアインシュタインの論争について、「いづれ觸れねばならない」と書いてゐますし、上に引いた文章で、「解説」とあるのも、文脈から、物理学理論の解説書を指してゐると読めます。

ベルクソン自身が苦労した相対性理論が、当面の大きな障害であつたことは確かでせう。しかし、それだけでせうか。目前の山の先には、さらに高く険しい峰が聳えてゐるのを感じてゐたのではないか。この先は、明確な根拠もなく、空想を逞しうしてゐるだけであることをお断りした上で、小林秀雄には、キリスト教の問題が、辿りつかねばならぬ遥かな高みとして見えてゐた、と言ひたいと思ひます。

『感想』が『道徳と宗教の二源泉』を目指してゐたことを、前提として話を進めますが、ベルクソンは、この本で、キリスト教の聖者達の神秘体験を手掛かりにして、神の存在や死後の存続の問題を扱つてゐます。その中で、キリスト教こそが完全な神秘体験であり、例へば仏教は、そこまで至つてゐない、といふ判断を下してゐます。この部分を、小林秀雄はどのやうな気持で読んだでせうか。

仏教をひとつの神秘主義だと見なすのになんら躊躇も感じられないだろう。しかし、我々はなぜ仏教が完全な神秘主義でないかを理解するだろう。完全な神秘主義は、行動であり、創造であり、愛であろう。
もちろん、仏教は慈悲を知らなかったわけではない。それどころが、仏教は極めて荘厳な言葉で慈悲を勧めた。仏教は戒律だけではなく、模範も示した、だが情熱を欠いていた。ある宗教史家が全く正当に言ったように、仏教は「全的にして神秘的な献身」を知らなかったのである。我々はそれに付言して、-恐らく、結局は同じことになるが-仏教は人間行動の効験性を信じなかったと言おう。仏教は人間行動を信頼しなかった。そうした信頼だけが力となり、山をも動かし得るのである。完全な神秘主義はそこまで進んだろう。
(平山高次訳、岩波文庫版、275頁)

ベルクソン自身も、当時のユダヤ人が置かれた状況を考へて、改宗まではしなかつたものの、葬儀ではカトリックの司祭に祈つて貰ひたいといふ遺言を残してゐます。

小林秀雄は、キリスト教についても、相当に勉強してゐたやうですが、自ら信じるには至りませんでした。岡潔との対談では、こんなやりとりをしてゐます。

 小林さんにおわかりになるのは、日本的なものだと思います。
小林 この頃そう感じて来ました。
 それでよいのだと思います。しかたがないということではなく、それでいいのだと思います。外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。
小林 同感はするが、そういうことがありますね。だいいちキリスト教というものが私にはわからないのです。私は「白痴」の中に出ている無明だけを書いたのです。レーベジェフとイヴォールギンという将軍を書いたのです。どうしてドストエフスキーがあれほど詳しく、あの馬鹿と嘘つきと卑劣な男を書きたかったか。あんな作品は世界の文学に一つもないと思いまして、それで分析したのです。それで頭のないトルソになったのです。
(第五次全集、第十三巻 195~196頁)

ドストエフスキーの場合と同じやうに、ベルクソンの場合も、キリスト教が最後のところで障害になるのではないか、さういふ予感が小林秀雄にあつたのではないでせうか。

他方で、小林秀雄には、他に書くべき人物がゐた。勿論、本居宣長です。先に言及した「一九六〇年の小林秀雄」で、小林秀雄が、戦後間もなく講演を行ひ、その要旨が大阪版「毎日新聞」に載つたことが紹介されてゐます。郡司さんは、その全文を引いてをられますので、孫引きしてみませう。

”藝術の役目はわれわれの意識なり知覺なりと現實-つまり内的なリアリティーとの間のヴェールを破ることだ”とベルグソンはいつてゐる、ヴェールとはわれわれの知性が張り廻らすもののいひである、人間ははじめに行動があり、次に行動を規制するものとしての知慧が生まれる、外的なリアリティーから政治的、社會的な生活に不必要なものを知性が取り捨てる、これがヴェールの役割なのだ、この幕を掲げて現實をぢかに魂で受けとめ、いはば言語に絶し色彩を超えた美的經驗を、人間に與へられたところの限りある不自由な言葉を用ひ、繪具を驅使して再現するのが藝術なのである、かうした美的經驗はまた現實の歴史の動かし難い生命を見出すのに大切な見方でもある
たとへば古事記をかういふ見方で再現したものが古事記傳である、美しい民族の神話だ、どこか間違つてゐるといふのでそれを合理的に解釋することは古事記の美しさをこはしてしまふ、かう考へてくると美的經驗に對する信仰と實證精神とは些かも矛盾しない
國民が擧げて政治的にならうとしてゐるこれからの時代には歴史の眞實の姿をゆがめられぬ形のまま掴むためにかういつた史觀の把握は特に重要と思ふ、何故ならば將來はより科學的な歴史が敎へられより實證的に歴史が分析されるであらうが歴史の現實の美に心打たれる精神が缺けてゐるとすれば史觀によつてたじろがない嚴かな歴史の姿は見失はれ、歴史以外には存在しない傳統といふものも忘れられがちになるであらうから
(『文學界』2002年9月号 253頁)

ここには、小林秀雄の戦後の仕事が目指した所が、明確に示されてゐると言へるでせう。そして、そこにベルクソンと宣長の『古事記伝』が並んで登場してゐるのです。『道徳と宗教の二源泉』に踏み込むには、キリスト教といふ難所がある。しかし、宣長であれば、それがない。日本人の自分が、残された人生で、先づ書くべきなのは宣長だ、さう考へて『感想』の中断を決めたのではないでせうか。

それに、小林秀雄は、宣長とベルクソンには、深い共通性があると考へてゐました。上に引いた講演要旨で、「美的經驗に對する信仰と實證精神とは些かも矛盾しない」といふのは、古事記伝について述べてゐるのでせうが、この言葉は、ベルクソンにも、そのまま当て嵌まるでせう。ベルクソンを語り続けることで目指してゐたものは、宣長について書くことでも、言ひ表すことができる、と考へたのかも知れません。

『本居宣長』をめぐつての、江藤淳との対談でも、「古事記伝」とベルクソンの哲学の革新との間の、本質的なアナロジーについての発言がありますが、上に言及した岡潔との対談では、かう言つてゐます。

そういう意味で宣長さんの考えた情緒というものは、道徳や宗教やいろいろなことを包含した概念なんです。単に美学的な概念ではないのです。
(第五次全集、第十三巻 185頁)

道徳や宗教! さうだとすれば、小林秀雄が『本居宣長』で書かうとしたのは、『二源泉』でベルクソンが扱つたのと同じ問題であつたと考へられるでせう。『本居宣長』は、小林秀雄の『道徳と宗教の二源泉』なのではないでせうか。


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