『感想』をたどる(16~20)

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第十六章

第十六章は、前章に引き続き、『変化の知覚』からの引用が中心となつてゐます。最後の段落では、同じ論文集『思想と動くもの』に収められた『形而上学入門』の文章への言及もあります。

第十五章に比べると、この章の前半では、一つの引用が長くなつてゐます。例へば、この章の最初の2頁半は『変化の知覚』の第二講演の一部(岩波文庫版『思想と動くもの』では、229頁末から)を話の筋に沿つて辿る形で書かれてゐます。この部分は、小林秀雄が、「要約が不可能なまゝに辿」らざるを得ないと考へた、といふことなのでせう。

実際、ここには、ベルクソンの驚くべき主張が述べられてゐます。小林秀雄の言葉では、かうなります。

變化には、いろいろな種類があるだらうが、變化の下に、變化する物が隱れてゐる、そんな變化はない。變化は、これを支へる何か支柱の樣なものを必要とするものではない。運動でも同樣で、運動にはいろいろあるが、自らは動かぬ不變なものが動く、そんな物はない。つまり運動といふものは運動體を含むものではない。

何か動きがあるのに、あるのは動きだけで、動いてゐる物はないのだ、と言はれると、誰もが驚くでせう。この部分には、ベルクソン存命当時から、いろいろと反論が出てゐたやうで、小林秀雄は直接には言及してゐませんが、原典ではベルクソン自身が注を付してゐます。岩波文庫版『思想と動くもの』では、406頁にありますが、以下、拙訳でお示しします。

私はこれらの見解をこの講演と全く同じ形で採録するが、その後の著作で提供した応用や説明にも係はらず、恐らく当時と同じ誤解を惹き起こすだらうと承知の上である。ある存在とは作用である、といふことから、その在り方は、はかないものだと結論できるだらうか。人が、存在は「基体」にありとする場合に、私以上のことを言つてゐるのだらうか。「基体」は、それを決めるもの、つまり、その本質とは、その作用に他ならないと前提されてゐるのだから、何も決められたものを持たないのに。このやうに考へられた存在は、少しでも、それ自身のもとに在ることを止めるだらうか、実在する持続とは、過去の現在における存続と、展開の不可分な連続を意味するのだとすれば。全ての誤解は、私の実在する持続といふ考への応用例に、空間化された時間の観念をもつて当たることから来てゐる。

誤解されやすいといふのは、小林秀雄が思想家について語るときに、よく出てくる主題の一つです。『感想』でも、これまで読んできた部分に、言葉はいろいろですが、次のやうな文章が見つかります。

自分の沈黙について、とやかく言つたり、自分の死後、遺稿集の出るのを期待する愛讀者や、自分の斷簡零墨まで漁りたがる考證家に、君達には何もわかつてゐない、と言つて置き度かつたのである。
(第一章、最終段落)
ベルグソンのかういふ言葉も、彼が、いつたん言葉を投げ棄ててから、拾い上げた言葉だと納得しなければ、曖昧な言葉と映るであらう。事實、多くの人々が、ベルグソンの自由の觀念の曖昧と矛盾とを難じた。ベルグソンにしてみれば、豫期してゐた事が起つたに過ぎまい。
(第三章、第四段落)
動く事物から固定した概念に向ふ道は開けてゐるが、固定した概念から動く事物に行く道はない、とベルグソンは、はつきり言ふのだが、いくら言つても言ひ足りない事だが、と斷つては、又しても同じ事を繰返す。もう、解つた、君の思想は直觀派の思想だ、といふ讀者が、いつも著者に聞え、著者は、この讀者を信ずる事が出来ないからだ。
(第七章、第一段落)
笑ひの正體は、極めて嚴密な方法によつて分析されてゐる。そして、この彼の斬新な方法が、當時、多くの誤解を生んだ事は、この書の序文と後記とをめば、あきらかなのである。誤解は、言ふまでもなく、をかしい事物に出會ひ、外側から目につくその一般的特性を寄せ集め、をかしさといふ圓周を描いてみせようとする陳腐なやり方で滿足してゐる理論家の側から起つた。
(第九章、第六段落)
圖式とかイメージとかいふ言葉が定義されてゐるのではない。さういふ言葉自身が、己れを明瞭化しようと努力してゐる。この樣な文體にはむ人の誤解が避けられぬ事は、恐らくベルグソン自身が一番よく知つてゐるであらう。
(第十四章、第七段落)

第十七章

第十七章では、最初の二つの段落で『思想と動くもの』に収められた論文について言及した後、いよいよ『物質と記憶』へと話が進みます。書かれた部分の『感想』について言へば、この『物質と記憶』についての論が大きな部分を占めてゐます。小林秀雄がベルクソンについて語らうとしたことの一つが、この著作を巡る何かであつたことは確かでせう。

第一段落では、『ラヴェソンの生涯と業績』にある絵画論について述べた後、『変化の知覚』の末尾の「その中に我らは生き、動き、また在るなり。」といふ言葉が引用されます。聖書の『使徒行伝』十七章二十八節のこの部分は、原著ではラテン語なのですが、日本聖書協会の訳ではかうなつてゐます。

我らは神のうちに生き、動きまた在るなり。

ちなみに、英訳では "For in him we live, and move, and have our being." となつてをり、前後を読むと、"him" は、"the Lord" あるいは "God" を指してゐるのが分かります。

第二段落で、小林秀雄は、かう書いてゐます。

この人間が世界の中に生きてゐるといふ事實に即して認識論が書けなければ、認識論とは、知識の遊戲に過ぎまい。だが、もし書けるとするなら、その研究は、ある意味で、人間の身分を越える事にもならう。「物質と記憶」は、その試みであり、當然、これは極めて難解な著作となつた。

「人間の身分を越える」といふのは、かなり大胆な表現ですが、ベルクソン自身、『思想と動くもの』の中で、これに似た言ひ方をしてゐます。以下の二つは、その例です。

直観はどこまでいくか。それを言うことができるのは直観だけである。直観は糸をにぎっている。その糸が天まで登っているかそれとも地面のいくらか離れたところでとまっているか、それを見るのは直観である。前の場合には哲学の体験は偉大な神秘家の体験と結びつく。われわれはわれわれなりに真理がそこにあると認めたつもりでいる。後の場合にはこの二つの体験はたがいに孤立したままでいるが、それだからといってたがいのあいだに矛盾はない。いずれにしても哲学は、われわれを人間の分際から高いところへもちあげたことになる。
(『緒論 第2部』岩波文庫版74頁)
しかし海の底に投げ入れた測深器が付けてもどってくる流動体も、太陽が乾かせばすぐに固体的で非連続の砂粒になる。持続の直観もこれを悟性の光線に当てると、やはりすぐに凝結してはっきりした動きのない概念に変わる。事物の生きている動きのなかに、悟性は現実的もしくは潜在的な停止点を定めようと努め、出発と到着とを記す。自然のはたらきをしている人間の思考にとって大切なのはそれだけである。しかし、哲学は人間の分際を超えるための努力でなければならない。
(『哲学入門』岩波文庫版300頁)

第三段落以降は、『物質と記憶』の第七版の序文、及び第一章の最初の部分について、抄訳とも言へる形で論が進められてゐます。逆に、同様の表現がベルクソンの著作には見当たらず、引用や要約とは言へない部分は、第三段落、第四段落の後半「ベルグソンが、特に、イマージュといふ言葉を使ひたいといふのも、」以降、それに、最後の段落の「何處までもつきまとふものは「コギト」の亡靈である。」以降の三個所くらゐです。

これらの個所には、繰り返し「コギト」といふ言葉が出て来ますが、ベルクソンの主要な著作の中には、この言葉は見つかりません。"Mélanges" の索引によれば、この論集に収められた様々な文章のなかで、数カ所に登場することが分かります。そのうち、最も詳しいのは、『感想』の第十二章でも言及されてゐる "La Philosophie Française" の冒頭で、デカルトの哲学について論じてゐる部分です。その一節を、手元に翻訳がないので、拙訳でお示しします。 ("Mélanges" 1159頁)

この自然に関する哲学の下には、精神についての理論、あるいは、デカルトの言ひ方では、「考へるといふこと」(Pensée)についての理論を発見できるだらう。考へるといふことを単純な要素に解きほぐさうとする一つの努力である。この努力は、ロックやコンディヤックの研究に道を拓いた。特に、そこで見ることができるであらう思想は、考へるといふことが先づ存在し、物質はそれに加へて与へられ、物質的な世界は、厳密には、精神による表象としてしか存在しないことがあり得るだらう、といふものである。考へるといふ行為が最初なのだ。これがデカルトの cogito である。現代のイデアリズムは全てここから来た。特にドイツのイデアリズムが、さうだ。

第十八章

第十八章では、『物質と記憶』の第一章、白水社版田島節夫訳の32~39頁、ちくま学芸文庫版合田正人・松本力訳の26~34頁に当たる部分を、ほぼベルクソンの話の流れに従ひながら、論じてゐます。『物質と記憶』に対応する個所が見当たらないのは、第六段落の末にある、以下の一節くらゐです。

このやり方は、ベルグソンに特有のものであつて、目指されてゐるものは常に實在の姿なのだが、實在の過不足のない分析などは、彼に信じられてゐないので、分析が一つの方向に行き過ぎたところは、反對の方向に行き過ぎた分析が修正するといふ説明法を、彼は好んで使用する事になる。彼の著作の精妙と難解は、こゝに由來する所が多く、特に「物質と記憶」は、そので解説者を困却させる。

實在の過不足のない分析などは、彼に信じられてゐない」といふのは、現実の複雑さと、言葉による表現の制約を考へれば、当然とも言へるでせうが、重要な指摘だと思ひます。困却させられてゐる「解説者」といふのは、小林秀雄自身を指すのでせう。

『物質と記憶』は、身体と精神との関係を論じた著作ですが、ベルクソンが19世紀末に提示した独創的な視点は、科学が大幅な進歩を遂げた今日においても、この難問を考へる上で、大きな示唆を与へるものだと思はれます。その基礎となるのが、

腦膸と脊膸との構造を比較してみれば充分だが、腦膸の機能と脊膸のシステムの反射作用との間には、複雜の度合の違ひはあつても、性質上の相違はないのである。

といふ観察です。ここから、

全動物界にわたり、神經系統は、動物の行動の必然性を減少するのを目當てに作られてゐる。とすれば、神經系統の進化に規定されてゐる知覺の進化も亦、ひたすら行動を目指すもので、認識を目指すものではないと考へていゝではないか。知覺自體豐富なものになつて行くといふ事は、たゞ單に、生物が事物に對して行爲する際、その自由選擇に委ねられた非決定帶の増大を象徴するものではないのか。

といふ指摘が出てきます。普通、知覚とは対象物に関する情報を得るといふ認知的な働きだと考へられてゐますが、ベルクソンは、それを否定するのです。

それでは、意識的な知覚はどのやうに生まれるか。ここでベルクソンは、「純粋知覚」といふ「私のゐる場所に居り、私と同樣に生活し、しかも現在だけに没頭し、凡ての記憶を放棄して、物質の直接的な瞬間的なヴィジョンを捉へる、さういふ生物の持つ知覺」を想定した上で、かう主張してゐます。

現存から表象に移るのに、現存に何かを加へる必要があるとするなら、物質から知覺への推移は不可解な神秘とならう。だが、逆に、第一の用語から何かを引き去れば第二の用語に移れる、即ち、イマージュの表象は、單なるその現存より小さいものとすれば、話はまるでつて來るだらう。何故かといふと、現存のイマージュが、自身の一部の放棄を強ひられさへすれば、その單なる現存は、表象にずるに充分だからだ。

ここでは、最初に引用した小林秀雄の注意にあるやうに、記憶を持たない知覚といふ、単純化がなされてゐるのではありますが、現実とは、意識的な知覚よりも、ある意味で、より豊かな相互作用を持つイマージュなのだ、といふ主張は、やはり驚くべきものだと言へるでせう。

細かくなりますが第五段落末に、「知覺が空間を處理する程度は、行動が時間を處理する程度に正確に等しい事は明瞭である。」といふ文章があります。原文は、la perception dispose de l'espace dans l'exacte proportion où l'action dispose du temps. となつてをり、合田正人・松本力両氏の訳の「知覚は行動が時間を自由にするのとちょうど同じだけ空間を自由にするのだ。」が、原文の意味に近いと思はれます。

(田島節夫氏の訳と、合田・松本両氏の訳は、それぞれのスタイルを持つてをり、読者により好みはいろいろでせうが、この部分については、合田・松本両氏の訳の方が良いと考へます。)


第十九章

第十九章では、前章に続いて、『物質と記憶』の第一章の残りの部分を論じてゐます。論の展開は、必ずしもベルクソンどほりではなく、少しでも分かりやすく紹介しようといふ小林秀雄の意図が感じられます。冒頭には、次の一節があります。

從つて、物が在るといふ事と物が意識的に知覺されるといふ事との間には、性質上の相違はない。あるのはたゞ程度の差である。

小林秀雄は引用してゐませんが、ベルクソンは、別の個所で「われわれの知覚は、純粋な状態では、まさしく諸事物の一部をなしているだろう。」といふ言ひ方もしてゐます(合田正人・松本力両氏訳79頁。田島節夫氏訳では75頁)。これも、純粋知覚といふ条件付きの議論ではありますが、普通に考へられてゐる物と知覚との関係とは、全く異なる主張です。特に「意識的」といふ言葉には、読者として抵抗を感じるのではないでせうか。

少し先を読むと、ベルクソンは、意識について、一般的な考へ方とは異なる見方をしてゐることが分かります。例へば次のやうな文です。

誰も心理状態の本質的な特性は意識にあるといふ考へから、容易に離れられない。從つて、心理的状態が、意識されないやうになるには、心理的状態が存在しなくならなければならぬと考へる。無意識と心理の非存在とを同義に扱ひながら、無意識の心理の意味するところを納得する事は難しい。だが、もし、意識とは現在の特徴的な刻印である事、即ち現實に生きられてゐるもの、つまり、活動してゐるものに他ならぬとすれば、活動しないものがもはや意識にさぬからと言つて、それを必ずしも、もはや存在しないものとなす道理はないではないか。
(『感想』第二十四章 第五次全集189頁)

第三章の「無意識について」といふ節にある文章ですが、意識が、現在に活動するものの特徴だとすれば、冒頭に引いた部分の意味も分かりやすくなると思はれます。

続いて、これも非常に重要な指摘がなされます。この部分は、ベルクソンが第一章の末で行つてゐる要約から、先回りして引用されてゐます。

物質が何か神秘的な力を秘めてゐると考へる理由など少しもない。例へば、神經組織といふものも、物質に違ひないし、ある性質の色彩も持ち、抵抗も持ち、凝集力も持つた物塊であるが、其他、私達の知覺しない樣々な性質を持つてゐるにせよ、要するに物理的性質を所有するに過ぎず、從つて、運動を受取つたり、阻んだり、傳達したりする作用以外のものがある筈はない。

精神作用は脳神経の活動の産物である、といふのが、今日の常識的な考へ方ではないかと思はれますが、ベルクソンの主張は、これと真つ向から対立するものです。神経は、あくまで物であり、神経であるに止まるので、そこから、魔法のやうに精神作用が生まれる筈はない、といふのです。

第三段落では、かうした考へ方こそが、「直接經驗による常識の考へ方」であるとの主張が述べられます。アランはベルクソンに対しては否定的な態度を取つてゐた人ですが、この段落で述べられてゐる議論などは、アラン自身の『精神と情念に関する81章』の一節(第四部第六章「心と体の結びつき」)の内容とよく似てゐるといふ気がします。

第五段落で、机上の本を例に取り、それが見えることと、大脳内の過程との関係が論じられてゐますが、次の一節の、知覚を知るには脳だけではなく関係する全てを考へる必要がある、といふ指摘は、今日でも検討に値するものではないでせうか。

私達は、在る本に私達の可能的動作をむのだ。本からする光線も、網膜も、大腦も、私達の知覺活動といふ一つの聯絡ある全體を形成してゐるのであつて、そのほんのさゝやかな部分である大腦内の過程が、知覺全體等價だとする理由はない。私達は、外界の運動を受納し、これを利用する必要上、神經系を持つが、その機能が知覺を發生させるわけでもなし、神經系の如何なるにも、意識的中心が存在してゐるわけでもない。

これに続く一文は、『創造的進化』を予想させるものだと言へるかも知れません。

知覺の發生の原因はといへば、神經要素の連鎖、これを維持する爲の器官、及び生命一般を發生する原因と同じものだと言ふより他はない。

この段落で小林秀雄が纏めてゐるベルクソンの説が正しいのだとすれば、現代の「心の哲学」で難問だとされてゐるバインディング問題なども、「感覺的刺戟と呼ぶところのものが、知覺を作り出すといふやうな無理な説明」が生んだ幻の難問だといふことになりさうです。

第六段落から第九段落では、「延長ある知覺が、どうして延長のないものと思はれる感情に移るかといふ問題」が扱はれます。その際に鍵となるのが、知覚の主体が「決して數學的點ではなく、身體であり、これは、自然の中の他の物體同樣に、外的原因を持つ作用にさらされてゐる」といふ事情です。

この辺りは、ほぼベルクソンの論の進め方をなぞる形で書かれてゐます。確かに、ベルクソンの論理の展開は鮮やかで、素直に辿る以上の説明はないやうにも思はれます。例へば、以下の部分など。

身體の行動能力(これを神經系の複雜の度合が象徴するのだが)が、大きくなればなるほど、それだけ知覺のとゞく範圍はひろがる。といふ事は、私達の身體と一つの知覺對象との間の距離は、實上、身にふりかゝる一つの危險の大小或は自らの希望實現の遠近を測る尺度だといふ事だ。從つて、或る間隔によつて身體から分離されてゐる、身體以外の對象する知覺は、常にたゞ或る潛在的作用を示すに過ぎない。しかし、この對象と私達の身體との距離が縮まるに從つて、言葉を代へれば、危險がいよいよ差迫り、利益がいよいよ近附いて來ると、潛在的作用は、現實的作用にずる傾向を示して來る。この傾向が極限に達したと假定しよう。つまり、距離が零となり、知覺對象が私達の身體と一致し、身體自身が知覺の對象となつたとする。さうなれば、それはもう潛在的作用ではない、全く特殊な知覺で現される現實の作用であらう。これが即ち、アフェクシオンである。

「アフェクシオン」を小林秀雄は「情」、「感情」あるいは「感じ」と訳してゐます。辞書に拠れば、affection は幅広い意味を持つ言葉ですが、ここでは、快や苦を伴ふ心理状態、或いは、感性や感情に影響を与へる変化を指すと考へてよいでせう。


第二十章

第二十章は、『物質と記憶』第一章の最後の部分から始められ、Écrits et Paroles I に収められた討論会の記録「精神生理學的並行論と實證的形而上學」でのベルクソンの発言に言及しながら、『物質と記憶』が書かれた狙ひについて論じてゐます。

最初の段落では、『物質と記憶』第一章で提示された、「腦膸は行動の具であつて、表象の具ではない」といふ「心理學を越えて精神生理學に向ふ」議論と、「私達は、眞實、私達の外部に於いて、知覺のうちに身を置き、直截な直觀のうちに、對象現實性にふれてゐる」といふ「心理學を越えて形而上學に向ふ」議論の双方について、記憶の研究が、その正否を検証する鍵を与へることが、述べられてゐます。第二章以降で、記憶についての研究を分析する意味が示されてゐるのです。

第二段落からは、「精神生理學的並行論と實證的形而上學」を元に、『物質と記憶』執筆に至るベルクソンの思考過程が、この討論会でのベルクソン自身の発言を引用しながら、論じられてゐます。この討論会の記録は、白水社から出てゐるベルクソン全集の第八巻に、「心身平行論と実証的形而上学」といふ題で収められてゐます。

ベルクソンは、ここで、記憶に関する観察から、生命の意味といふ大きな問題まで進む道筋が見えると述べてゐます。

この觀察は、やがて、そのまゝ、生命の意味するところ即ち心と肉體との區別の意味、並びに、兩者が協力し統一する理由を、順を追つて、實證的に決定する可能性を示すものではあるまいか。其處から、生命が私達の思想にもたらす、全く特殊な制限が、次第に明らかになつて來るのではあるまいか。

坂下さんが、小林秀雄MLで、篠原資明氏の『ベルクソン』(岩波新書)に言及してをられました。著者の「はじめに」によれば、この本は「われわれがどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか」といふ問ひに、ベルクソンを手がかりとして「大まじめに取りくんだ記録である」といふことですが、上に引用した部分を読むと、ベルクソン自身が、『物質と記憶』を書くにあたつて、同様の大きな目標を持つてゐたことが分かります。

細かな話ですが、翻訳に関する点について一言。第三段落に、次の下りがあります。

そこでベルグソンは、精神と物質とのまさに交叉點を現してゐる記憶の問題に着目し、失語症の研究に五年間を費した。ところが、これを、彼は、あへて失語症といふ文學の皮をはぐのに五年間かゝたと言ふのである。それほど、偏見をすてゝ、事實を吟味するといふ事は難しい事だつた。

真ん中の一文は、原文では、以下のやうになつてゐます。

La littérature de l'aphasie est énorme. Je mis cinq ans à la dépouiller.

"dépouiller" といふ動詞は、「皮をむく」といふ意味もありますが、「分析する、詳しく調べる」といふ意味にもなり、ここでは、後者で読むのが、正しいと思はれます。"littérature" も、「文学」の他に「文献」といふ意味を持つので、「文學の皮をはぐ」ではなく「文献を精読する」となるでせう。小林秀雄は、そこを勘違ひして、深読みをしてゐるわけですが、さうした誤りを犯したのは、ベルクソンの姿勢をよく理解してゐたからだとも、言へるのではないでせうか。

最後の段落で、小林秀雄は、ベルクソン自身の言葉を踏まへながら、かう書いてゐます。

こゝに現れたベルグソンの自信は、哲學には、その固有な實證的方法があるといふ、この空前な思想家の確信を、そのまゝ語つてゐる。哲學は、實在の説明について、單純な決定的な概念のうちに、自己を完成したいといふ希ひによつて、己れを誤り、他からも誤られて來た。ともに、實在の究明を仕事にしてゐるなら、科學に完成のないやうに、哲學にも完成はなくてもよいし、恐らくあり得ない。

ベルクソンの著作には、sui generis といふ言葉がしばしば登場します。「独自の、独特の、他に比較するもののない」、といふ意味を持つラテン語ですが、これは、既存の概念や言葉に引き摺られて議論を進めるのではなく、現実の持つ独自の姿を見つめるべきだ、といふ考へ方の現れだと言へるでせう。上記の小林秀雄の誤解も、かうしたベルクソンの思想を熟知してゐたが故のものだと思はれます。

この章の最後にある次の下りでは、「精神生理學的並行論と實證的形而上學」でベルクソンが『物質と記憶』を書いた目的を語つたやうに、小林秀雄が『感想』を書いた理由の一つを語つてゐます。

この著作を要約してみる事など思ひも寄らないが、ベルグソンの著作のうちで、最も獨創的なものでありながら、恐らく一番讀まれてゐない事を考へる時、彼の劃期的な知的努力の描いた曲線に、若干の切線は引けたら引いてみたいと思ふのである。

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