『感想』をたどる(41~45)

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第四十一章

第四十一章でも、前の章に続いて、『物質と記憶』の第一章が取り上げられてゐます。前の章よりも引用が増えてゐるやうですが、小林秀雄が自分の言葉で語る部分が多いのは、同じです。例へば、次のやうな部分は、ベルクソンの語り口とは異なる、小林流の表現だと言へるでせう。

相互作用の沈默の流れのうちに、私達は投げ出され、生きる爲に、この流れに抗し、これを利用したいと願つた。生物のこの大きな願ひにより、私達は、流れを掴まへる役目をする榮養器官を持ち、流れを利用する役を負ふ運動器官を、遠い昔から進化させて來た。
(第二段落)
知覺自體が何者かを問ひはしない。それは生命自體のやうに沈默してゐるだらう。自然は、そんな質問に口を割りはしない。私達の内に知覺があるのではない。與へられた巨大な知覺のうちに私達がゐるのだ。
(同上)

このやうな部分は、小林秀雄が『物質と記憶』をどのやうに読んだかを知るためには、とても有用なのですが、ベルクソンの思想を知るといふ観点からは、少し注意が必要になる場合もあります。例へば、第二段落の末にある、次の一文です。

彼は、經驗的事實に即して確言出來る事だけを言ふのである、私達の知覺の方が、むしろ生き物の行動の力の、運動の非決定或は受け入れた運動を追ふ行爲の、明らかな説明であり尺度である、と。

後半に引用されたあたりは、原文では、次のやうに書かれてゐます。

mais la perception naît de la même cause qui a suscité la chaîne d'éléments nerveux avec les organes qui la soutiennent et avec la vie en général: elle exprime et mesure la puissance d'agir de l'être vivant, l'indétermination du mouvement ou de l'action qui suivra l'ébranlement recueilli.
(Œuvres, p.212)
そうではなく知覚が生まれるのは、神経要素の連鎖とともにそれを維持する器官、あわせて生命一般を生ぜしめるのと同じ原因からである。知覚は生活体の行動力、すなわち受けた興奮に後続する運動ないし行動の不確定を表現するものであり、これを示す尺度なのである。
(田島節夫訳、白水社版74頁)

小林秀雄が、「明らかな説明であり尺度である」と書いた部分は、「表現するものであり、これを示す尺度なのである」となつてゐて、「説明」といふ言葉は使はれてゐませんし、「明らかな」といふ形容詞も見当たりません。また、小林秀雄は「私達の知覺」といふ言葉を使つてゐますが、ベルクソンは「知覚」といふ、より一般的な言ひ方をしてゐます。

細かな違ひではありますが、翻訳について注文の厳しかつたベルクソンが、この部分を翻訳として読めば、修正を求めたのではないかと想像されます。日本語を読めたとして、の話ですが。

最後の段落の冒頭にある次の一文は、非常に重要な指摘だと思ひます。

從つて、ベルグソンの考へでは、知覺と感覺とには本質的な區別があるのであり、知覺が諸感覺から構成されてゐるといふやうな考へを許さない。

しかしながら、現代の科学的な認識論でも、知覚が諸感覚から構成される、といふのが、依然として暗黙の前提になつてゐるのではないでせうか。原因としての感覚があり、結果として知覚が生じるといふ考へ方です。例へば、網膜から出て視神経を伝はる信号が、脳のどの部分に届くか、といふ分析に、それが見られます。

この考へ方が様々な困難を生むことは、ベルクソンが指摘してゐるとほりですし、彼が指摘した問題点は、依然として未解決のまま残されてゐるのですから、前提から考へ直すことが必要ではないかと思はれます。


第四十二章

第四十二章は、『物質と記憶』第一章についての最後の章です。引用文の多くは、「記憶の問題への移行」及び「物質と記憶」と題された、第一章の最後の二節から取られてゐます。

これらの節でベルクソンは、第一章で示した純粋知覚といふ考へ方を整理し、この考へ方から、脳は行動の道具であり表象の道具ではないといふ、心理学的な結論と、純粋知覚により対象の実在に直接ふれることができるといふ、形而上学的な結論の、二つが導かれ、記憶の問題を調べることで、これらの結論が正しい事が検証されると、述べてゐます。

この部分は、第十九章と第二十章で、一度、取り上げられてゐますが、小林秀雄自身が、「重要だから繰返す」と書いてゐる、最初の段落を除いて、以前は言及してゐなかつた部分を取り上げたり、自らの言葉で、ベルクソンの考へ方を整理したりしてゐます。

例へば、第二段落は、初めて言及される部分です。

常識は、物質界が、その現れてゐるがまゝに在る事を容認してゐる。その事は、常識が、物質界を、知的に構成してみようとはせず、たゞこれをそのまゝ體驗してゐれば、それで不足はないといふ、その基本的な態度を語つてゐるのである。又、それ故に、常識は、物質とは全く異なる精神の存在を信じてゐる。

この後半の部分とほぼ同じ文章が出てくる『物質と記憶』 の文章は、かうなつてゐます。

本当は、唯物論を論破する手段が存在するし、それもただ一つだけ存在するだろう。それはつまり、物資が、まったくあらわれるとおりに存在するということを明らかにすることだ。このことによって物質は、あらゆる潜在性、かくれた力をとりのぞかれ、精神の現象は独立の実在性をもつこととなろう。しかしそのためには、唯物論者と唯心論者が一致して物質から取り去ることによって、後者は精神の表象にしてしまい、前者は延長物の偶然的な装いとしか見ようとしない諸性質を、物質にそのまま残しておかなければなるまい。
 これはまさに物質にたいする常識の態度であり、またそれゆえに常識は精神を信ずるのである。
(田島節夫訳『物質と記憶』84頁)

第二段落の最後に「感覺と呼ばれる現實行爲」といふ言葉が出て来ますが、「感覺」の原語は、第十九章で、「感じとか情」と訳されてゐた affection です。哲学辞典を見ると、「触発」といふ訳がついてゐますが、詳しい説明がないと、この言葉だけでは何のことか分かりません。いづれにせよ、日本語には対応する概念がないので、一言で翻訳するのは無理な言葉のやうです。

第三段落でも、以前には触れなかつた部分を取り上げてゐます。

事實、現に在る物の直觀は、この上に蔽ひかぶさる記憶全體から見れば、ほんの瑣細ささいなものであり、私達が、この瑣細なものを無視するのは、私達は、私達の決斷を指導するのに、實用上、記憶に頼るのが、遥かに便利であり、有益だからだ。言ひかへれば、現存する實在の直觀の代りに、類似の直觀の囘想で間に合はせ、結局、知覺を記憶喚起の一つの機會に過ぎぬものとして生活してゐる。

第四段落では、次のやうな言ひ方で、ベルクソンの考への特徴を挙げてゐます。

ベルグソンの物質の考察は、飽くまでも、私達の物質への働きかけ、物質に對する私達の身軆の職能といふ立場からなされるのだから、この働きかけのうちで、知覺と記憶とが協力してゐるなら、記憶を出來るだけ取除いてみれば、純粹と呼んでいゝ知覺が得られる筈であり、この純粹知覺は、私達に物質自體を與へるものと考へた。そこに、彼は、知覺と對象とに共通な非人格的な基礎がある、と見た。
さういふ次第で、ベルグソンの記憶理論は、知覺理論を貫いてゐた同じ考へによつて貫かれてゐる。既記の通り、彼の知覺の考察では、私が見るといふ事が問題ではなく、私が何を見ないかが問題であつた。私のさゝやかな知覺から出發して、外物全體の知覺に達する道はない。知覺全體から出發して、私達は生活行爲の要求に從つて、經驗を重ね、自己中心の知覺を形成するに至つたのである。記憶の場合でも同じ事で、記憶の實在を許して、これを考察すると、記憶全體は與へられてゐて、これについての説明は無用とする事に他ならぬ。私達の過去全體は、權利上、存續してゐるが、事實上、私達の身軆とともにある意識は、この全體のうち、行爲に役立つものしか引止めぬ組織をなしてゐるから、説明を要するのは、知覺にあつて、空間的な自己制限であつたやうに、記憶の時間的な自己制限、即ち忘却である、といふ事になる。

「記憶全體は與へられてゐて、これについての説明は無用とする事に他ならぬ。」といふのは、面白い指摘だと思ひます。

末尾にある、「腦膸は、記憶の原因であるよりむしろ結果なのだ。」といふ文は、これだけを取りだして読むと、驚いて仕舞ふやうな主張ですが、ベルクソンの文章では、この部分は、「脳髄は」ではなく、「脳髄の過程は」となつてゐて、それであれば、より納得しやすいでせう。

なほ、ちくま学芸文庫版の『物質と記憶』では、誤植だと思ひますが、この「(脳の過程は)記憶力の原因といふよりはむしろ結果であること」といふ一節が抜けてゐます。


第四十三章

第四十三章から、『物質と記憶』第二章に話が進みます。扱はれてゐるのは、第二十一章とほぼ同じ、「記憶の二形式」と「運動と記憶」の二つの節です。第二十一章が、ベルクソンの文章を丁寧にたどる形で書かれてゐたのに対し、自分の言葉でベルクソンの主張を纏めようといふ書き方が出てゐるのは、第三十九章以降、一貫してゐます。

例へば、第四段落には、以下のやうな文章が見られますが、これは、『物質と記憶』には出てこない言葉で書かれてゐます。

生きるとは、過去と現在とを統一する事だ。精神を肉體に對し、肉體を精神に對し、整調する事だ。この統一や整調は、ほつて置いて、自然に、成就するものではない。生きるとは、この成就に努力してゐるといふその事である。意識と肉體とは、併存してゐて、容易に結合する事物ではない。心身の調和とは、異質のものの調和であり、なるほどこれは普通な健康状態だが、調和は不安定で、常におびやかされてゐる。健康は、疲勞や苦痛の代償なくして得られるものではない。調和を囘復しようとする努力は、空氣の重さに氣附かぬやうに、それと氣が附かぬ間にも、間斷なく行はれてゐるものだ。記憶といふ心理現象を透けて、ベルグソンに見えてゐたものも亦この生命の營みであつた。

第五段落の、次の文章も同じです。

極限を考へれば、表象的記憶は、過去の精神に一致し、習慣的記憶は、現在の行動に一致するだらうが、實際には、私達は、言はば記憶の兩活動の中間的状態を生きてゐる。それぞれの記憶作用は、その本來の純粹性の幾分かを捨てて、互いに區別し難く融合してゐる状態を生きてゐる。或は、私達は、生きようと努めてゐるからこそ、互に異なつた記憶作用の力線の微妙な平衡を保持してゐるのだ。生きるとは、精神的に生きる事でも身軆的に生きる事でもない。兩者の關係を生きる事だ。

「意識と肉體とは、併存してゐて、容易に結合する事物ではない。」といふのは、かなり極端な二元論の意見ですが、ベルクソンの主張にそつたものであり、また、常識の主張だとも言へるでせう。

「私達は、生きようと努めてゐるからこそ、互に異なつた記憶作用の力線の微妙な平衡を保持してゐるのだ。」といふ一節からも窺はれるやうに、小林秀雄にとつて、生きるといふのは、努力することであり、だからこそ、精神と肉体との調和、即ち健康を保つ難しさが、強く感じられたのではないでせうか。

なほ、第二十章で、La littérature de l'aphasie est énorme. Je mis cinq ans à la dépouiller. といふ文章の理解に誤りがあることを書きましたが、この章では、その部分は、「その病的症例に關する豐富な事實記録の點檢に没頭した。」といふ形で修正されてゐます。(第五段落末尾)


第四十四章

第四十四章では、『物質と記憶』第二章の残りの2節、「記憶と運動」と「記憶の現実化」が扱はれ、続いて、『精神のエネルギー』に収められてゐる「現在の思ひ出と誤つた再認」、更には、『生命のエネルギー』に収められてゐる「魂と身体」が言及されてゐます。

最初の四つの段落で『物質と記憶』、「潛在的な過去が、神經組織といふ運動器官を介して、」で始まる第五段落からの四つの段落で「現在の思ひ出と誤つた再認」、そして最後の段落で「魂と身体」について、それぞれ述べてゐます。

この章で扱はれてゐる『物質と記憶』の部分は、以前に、第二十二、第二十三の二章で取り上げられてゐました。また、「現在の思ひ出と誤つた再認」については、第二十八章から第三十一章で、詳しく述べられました。この章では、これらの内容を、より簡潔にまとめてゐます。「魂と身体」は、第三十八章でも取り上げられましたが、この章と、続く第四十四章では、その時には触れられなかつた部分が引用されてゐます。

第二段落に、次の一文があります。

熟慮反省(réflexion)を伴ふ再認とは、文字通りに反射(réflexion)の作用を伴ひ、又これが主役を演ずる過程なのである。

第二十二章では、この部分について、次のやうに書かれてゐて、réflexion といふフランス語の持つ二重の意味が明示されてゐませんでした。

ベルグソンは、私達の現實の注意作用を、あるが儘に觀察すると、どうしても、これは語原通りの意味で、一つの反射(réflexion)を假定せざるを得ない、とする。

第四十三章で触れた、「その病的症例に關する豐富な事實記録の點檢に没頭した。」といふ部分もさうですが、第三十九章から始まつた、『物質と記憶』を第一章から、自らの言葉で論じ直す作業では、ベルクソンの原文に、より大きな注意が払はれてゐるやうに思はれます。


第四十五章

第四十五章では、前の章に続いて『生命のエネルギー』に収められてゐる「魂と身体」から引用し、同じ論集の「生者の幻と心霊研究」の一節に触れた後、『物質と記憶』に話が戻ります。「魂と身体」からの引用は、過去と現在との境界が、普通に思はれてゐるほど明瞭なものではない事を、単語の発音を例にとつて説明した部分です。これも、ベルクソンの議論にしばしば現れる非常に説得的な例の一つだと思ひます。是非、ご一読をお勧めします。

細かな翻訳の話を一つ。最初の段落に次の文章があります。

私達の内生活全體は、意識の最初の目覺めで口が切られた一つの章句の如きものだ。章句には、句點ヴィルギュルはあるが、ポアンで切られてはゐない。

普通、句点「。」は一文の終りを、読点「、」は一文中の切れ目を示す記号です。フランス語では、前者がポワン(point)、後者がヴィルギュル(virgule)です。上記の文では、ヴィルギュルに「句點」、ポアンに「點」といふ訳が当てられてゐて、通常の使ひ方とは、少し違つてゐます。他方で、手元にある『スタンダード佛和辭典』(1973年発行の21版)を見ると、ポアンは「句読点」、ヴィルギュルは「コンマ、句点」といふ訳がついてゐます。「読点」といふ言葉が、あまり一般的ではないので、かうしたのかも知れません。

「生者の幻と心霊研究」の一節といふのは、第三段落にある以下の部分です。

腦中樞も、これに結ばれた感覺装置も、廣大な潛在的な知覺の野を限る器官なのだ。この器官の働きによつて、外部からの無秩序な影響に、言はば運河が作られ、こちらからの外部への影響にも方向が定まり、私達の行動の有效性が保證される。

このとほりの文がある訳ではないのですが、「運河」といふ特徴的な言葉が出てくるのと、論旨が同じであることから、さう考へました。『物質と記憶』でも、一番最後に、"canaliser"といふ言葉が出て来ますが、文脈が違ひます。

『物質と記憶』については、第三部の最初の三節、「純粋記憶」、「現在とは何か」、「無意識について」からの引用を中心に書かれてゐます。第三段落の次の文は、その内容を要約したものと言へるでせう。

そこで、ベルグソンには、無意識といふ問題は、知覺に於いても、記憶に於いても同じ意味を持つのである。と言つても、少しも特別な意味ではない。對象を知覺する事を止めれば、それは存在しなくなると考へるいかなる理由もないやうに、知覺される途端に過去は消えて無くなると考へるいかなる理由もないといふに過ぎぬ。私達の現在の状態に、記憶全體が粘着してゐるのは、私達が現に知覺してゐる對象に、私達に知覺されない全對象が粘着してゐるのと同じ關係にあるので、無意識は、どちらの場合でも、同じ役を演じてゐる。

翻訳の問題を、もう一つ。第五段落に、次の文があります。

私の身軆とは、過去に影響する物質と過去が影響する物質との間に介在する運動の中心である。

私の身体が影響を与へられるのは、過去の出来事だとしても、影響を及ぼすのは未来のことですから、違和感のある文章です。

Placé entre la matière qui influe sur lui et la matière sur laquelle il influe, mon corps est un centre d'action,

といふのが原文ですが、物質に影響され、また、影響を与へてゐるのは、「私の身体」です。"lui"や"il"といふ代名詞が、この文章の前にある「過去」を指すと誤読したので、上記のやうな訳になつたのでせう。

ともかく、小林秀雄は、このあたりでは『物質と記憶』の原文を参照しながら書いてゐる事が分かります。


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