第二章、第三章でアランは、錯覚や運動の知覚には理性が係つてゐることを示したのですが、この章ではかうした感覚は教育により育てられるものであると述べます。このこと自体は当たり前で、わざわざ言ふほどのことではないかも知れませんが、私がアラン流でおもしろいなと思ふのは、ここで「無邪氣な理性」を登場させ、「遥か彼方の樹も此處にある樹も色は同じ青い色だ、ただ片方が遠いだけだと言張」らせたり、「畫を描かうとして、外觀が
他方で、感覚に頼つてゐたのでは駄目なのは、運動の例で示されるとほりで、
こゝでは外觀の力が非常に強いから、物の眞の姿は、たゞ僕等にはどうしても見る事が出來ないまゝに斷定される。
大天文學者にも空の星は動くと見える。では、どうすれば正しい判断に辿りつけるのか。表には出て来ませんが、この問題意識が『八十一章』の中心を成すことは「序言」で見られたとほりです。
また、最後につぎの注意をする事を忘れないのも、哲学の目的を忘れさせないというアランらしい配慮です。
肉體の認識も物の認識も僕等に與へられてゐる樣で、實はみんな僕等が學ぶものだ。どの樣に學ぶか、その細部や秩序は、習練を積めば立派に見抜く事が出來るのだが、あまりさういふ事に凝つて、どう見ても本當らしくない樣な理窟を編み出さない樣に氣をつけるがいゝ。精妙などこまで行つても果てしのない樣な議論は、元來眞の哲學には無縁なものと知り給へ。
この章は小林訳で読みにくいところは無いと思ひます。最初の段落の真ん中あたりに、「僕等は遠近を解釋出來る」といふ文がありますが、ここで「遠近」と訳された言葉は perspective です。『Xへの手紙』には、「ほんの心理の或る遠近法の問題であつた。」といふ一節(第5次全集第2巻263ページ)があり、最初に読んだ頃によく理解できなかつたのですが、これも perspective といふ意味で使つてゐたやうです。
ちなみに、手元にあるフランス語の辞書(Petit Robert)でこの言葉を探すと、以下の意味が並んでゐます。いい加減な訳で済みませんが、ご参考まで。
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