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第1章 勇気

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まづ第6部の表題「道德」について。これは des vertus がかう訳されてゐるのですが、各章では、勇気、節制など様々な徳目が説かれてゐるので、徳あるいは美徳といふ訳もできるでせう。

最初の二つの段落でアランは、動物には勇気も恐怖もないと言ひます。兇暴な獣でも、あつけなく逃げ隠れするので、勇気の無さは分かる。恐怖の裡にあつても理性は欠けず屈しない。さうした理性を持つものにこそ恐怖は訪れる。動物は逃げだすだけだ。恐怖の念は勇気が支へてゐるのだ。

かうした人間と動物を峻別する意見はデカルト直伝で、自然との繋がりを重んじる東洋人には受け入れにくいものかも知れません。ただ、これは肉体や本能を軽視してゐるのではなく、精神を重んじてゐるのだと見る方が、デカルトやアランの考へ方に近づけるといふ気がします。

後半の二段落では、戦争について述べられます。断乎とした英雄の姿を見せることで、自由であれ、聡明であれ、何物にも傷けられぬ身になれと言つて呉れる人間が敵として向かうにゐる、さうした戦争の姿は、アランがこの文章を書いてゐた第一次大戦の頃には未だ存在してゐたのかも知れません。「平家物語」を思はせる、かうした戦いの図が、一万米の上空から見えない敵に爆弾を落としたり、ミサイルのボタンを押すだけの現代の戦争に当てはまるのかは、疑問ですが。

翻訳について二つ三つ。第三段落のはじめに

實際の危險が近付けばやはり恐怖を新たにする筈だ。

といふ文章があり、中村雄二郎さんも同様に訳してをられます。しかしここは、

実際の危険が近付くと、また自分を取り戻すのだから。

と読む方が文脈に合ふと思はれます。

また、最後の段落に、次のやうな文があります。

何の爲だ。多數の人々にとつては死ぬ爲だ、少數の人々にとつては、權力に挑戰する爲だ。

ここでも小林訳と中村雄二郎さんの訳し方がほぼ同じなので、卑見を述べるのが憚られるのですが、

何といふことか。あれほど死ぬ人間がゐて、権力に立ち向かふ者はそんなに少ないのか。

といふのが素直な訳だと思はれます。

この読み方が正しいとすれば、アランは戦争の最中に殆ど反逆を呼びかけてゐるとさへ見えますが、彼が言ひたいのは、尊敬と服従とを区別せよ、といふことだと思ひます。ソクラテスはアテネの法に従つて毒杯を仰いだが、さうした決定を下す市民を尊敬はしてゐなかつたでせう。民主主義における権力と個人との関係は、アランにとつて重要な問題であり、これからの章で、何度も姿を見せます。

この章は、次のやうに締めくくられてゐます。

だが、すべての戰士等は、膝を屈して生きてゐる、王の爲に、太守の爲に監察官の爲にふるへてゐる。彼等には、死ぬまでに一度か二度生きる機會は戰爭しかないのだ。

最後の文は、

戦争で初めて生きる機会を一二度見つけて、死ぬのだ。

といふやうにも訳せるでせう。

ちなみに、アランの死後発表された『定義集』にある「勇気」の項目では、勇気は「恐怖を克服した徳」であるが、「勇気が最大の危険に突き進むものだというのは正しくない。そんなことをしたら、無謀というものだろう。」と言つてゐます。「勇気は慎重さと手を組んで、怒りなしで見事にやって行く。」(神谷幹夫さんの訳された岩波文庫の『定義集』から引用しました。)


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