本文を読んで頂くと分かるやうに、ここで語られてゐるのは、主にキリスト教の教会です。教会の構造やそのなかで執り行はれる儀式が、いかに人の心を整へ、人々が集まると騒ぎが起きやすいのをどう静めるかといふ工夫であることを述べてゐるのです。その意味では、前章の末尾の文に続くものだと言へるでせう。
アランは最初の段落で、
僕等の思想を暗示するのは物だと言ふが、それではとても言ひ足りないのだ、僕等の 對象 が僕等の思想なのだ。
と述べてゐますが、この主題を教会について展開してみせたのが、この章だと見ることもできます。アランの芸術論の基礎にあるのも、同じ考へだと言へるでせう。しかし、アランを読んでおもしろいのは、抽象化された主題や結論ではなく、それが具体的な問題を前にして、どう適用され、展開されるかといふ部分ではないでせうか。
以下、細かな点になりますが、注をつけます。最初の段落の、「幾何學の魔除けは受けてゐるが森の中にはいつも現れる異端の神々」といふ部分は、短い表現で分かりにくいのですが、ゴシック様式の教会の整然と並ぶ柱列が異端の神々の隠れる場所をなくす、といふ意味ではないかと思ひます。
同じ段落の「神は人間となつた」といふ部分を、中村雄二郎さんは「神はみずから人間をつくられた」と訳してをられますが、Dieu s'est fait Homme. といふ原文は、小林訳のやうに、神がキリストとなつて現れたと読むのが良いと思ひます。神は自らに象つて人間を作つたといふ読み方もあるかも知れません。
同じ段落の最後の方に「筋道の通つた智慧と外的ないろいろな怪物との對照」といふ句があります。怪物は、ゴチック教会に見られる怪物の形をした雨水の落とし口を指すのではないかと思ひます。次のURLに絵や写真が載つてゐます。http://fr.wikipedia.org/wiki/Gargouilleこのやうな怪物の姿を見た後、やさしい聖母の像を眼にすれば、「安心と救ひとを感ぜざるを得ない」といふのでせう。
末尾に、「しかし詠歌隊には敵はないのだ。」といふ文があります。私は最初、
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