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アラン『藝術論集』


アラン『藝術論集』は、桑原武夫訳で、繰返し読んだためでせうか、表紙やとびらが取れてしまつてゐて、出版社や発行年月を確認することができないのですが、国会図書館のデータによれば、桑原武夫訳の『藝術論集』は、岩波書店から1941年に出されてをり、同じ年に、小林秀雄は「アランの「藝術論集」」といふ文章を書いてゐるので、「小林秀雄文庫」の本は、これだと推測されます。

小林秀雄とアランの出会ひについては、「アランの事」(第五次全集第3巻70~74頁)に書かれてゐます。フランス書院といふ本屋で『精神と情念に関する八十一章』を見つけ、「こんな表題をつける人は並みの學者ぢやないといふ氣がふとして買つて歸り、一氣に讀み茫然として偉い男だと思」ひ、「早速辰野先生の家に行き、アランといふ人がゐるが、他に本があつたら貸して欲しい」と頼んで、『思想と年齢』を借りて読み、「アランといふ人がほゞわかつた氣がした」とあります。『八十一章』は、後に、『精神と情熱とに關する八十一章』といふ題で、翻訳、出版してゐます。

小林秀雄がアランに言及してゐるのは、上記の「アランの事」が最初ですが、年代順に並べると、以下の作品や対談にアランの名が登場してゐます。

アランの事 1934年
「文學界」編輯後記7 1935年
演劇について 1936年
「精神と情熱とに關する八十一章」飜譯 1936年
「精神と情熱とに關する八十一章」譯者後記 1936年
湯ヶ島 1937年
フロオベルの「ボヴァリイ夫人」 1937年
「デカルト選集」 1939年
アラン「大戰の思ひ出」 1940年
アランの「藝術論集」 1941年
私の人生觀 1949年
「ペスト」 I  1950年
現代文學とは何か 對談 1951年
文學の四十年 對談 1965年
「精神と情熱とに關する八十一章」譯者あとがき 1978年

これから分るやうに、小林秀雄が、アランについての文章を発表したのは、1978年に創元選書の一冊として復刊された『八十一章』のために書いた「訳者あとがき」を除けば、1950年が最後で、その他には、対談で言及してゐるだけですが、アランについての関心は持ち続けたやうです。1981年7月に講談社から出た『小林秀雄全翻訳』の解題で、郡司勝義氏は、かう書いてをられます。

「神々」「芸術二十講」「定義集」など、アランは、小林氏の今日でもなお愛読してやまない著者の一人である。

「小林秀雄文庫」には、アランの著作やアランに関する本が30冊残されてをり、この郡司氏の発言を裏付けてゐます。以下に、それを、出版順に列挙してみませう。なほ、以下に示す年月は、「小林秀雄文庫」に残されてゐた本が出版(ないし印刷)された年月です。小林秀雄が入手したのが二版以降のものであることも多いので、初版の出版年月とは必ずしも一致しません。小林秀雄が、ここに示した年月に、その本を入手したとは言へませんが、それ以降に手に入れたことは確かです。

『バルザック』アラン 小西茂也訳1940年9月
『藝術論集』アラン 桑原武夫訳 1941年(?)
『人間論』アラン 鈴木清訳 1941年9月
『情念について』アラン 小西茂也訳 1942年7月
『信仰についての談話』アラン 松浪信三郎訳1942年8月
"Spinoza"Émile Chartier (Alain) 1949年1月
『わが思索のあと』アラン 森有正訳 1949年3月



『文学論』アラン 片山敏彦訳 1950年2月
『哲学入門 思想・上』アラン 吉田秀和訳 1951年1月
"Alain"André Maurois 1951年2月
"Préliminaire à l'Esthétique" Alain 1951年12月
"Hommage à Alain"La Nouvelle Revue Française 1952年8月
『神々』アラン 井沢義雄訳 1956年10月
"Pour Connaître la Pensée d'Alain"Georges Pascal 1957年1月
『幸福論』アラン 石川湧訳 1958年12月
"Alain - Lecteur de Balzac et de Standhal"Judith Robinson 1958年4月



"Les Arts et les Dieux" (Pléiade)Alain 1961年9月
『アラン著作集6 イデー -哲学入門-』渡辺秀訳 1964年2月
"Les Passions et la Sagesse" (Pléiade)Alain 1964年2月
『アラン著作集3 情念について』古賀照一訳 1964年6月
『アラン著作集4 人間論』原亨吉訳 1964年6月
『アラン著作集8 わが思索のあと』田島節夫訳 1964年7月
『アラン著作集2 幸福論』串田孫一他訳 1965年9月
"Propos" (Pléiade)Alain 1965年10月
『アラン著作集1 思想と行動のために-哲学概論-』中村雄二郎訳 1966年5月
『アラン著作集7 教育論』八木冕訳 1966年5月



『アラン著作集5 芸術について』矢内原伊作訳 1974年3月
『精神と情熱とに関する八十一章』アラン 小林秀雄訳 1978年12月
『經濟隨筆』アラン 橋田和道訳 1979年7月
『音楽家訪問』アラン 杉本秀太郎訳 1980年1月

最初に読んだといふ"Quatre-vingt-un Chapitres sur l'Esprit et les Passions"は残つてゐませんが、アランについての文章を発表しなくなつてからも、アラン関連の本を読み続けてをり、1960年代には、著作集やPléiade叢書を入手してゐて、アランの著作を体系的に読まうとしてゐたことが窺はれます。

リストにある、橋田和道訳『經濟隨筆』は非売品で、訳者が自費出版されたものだと思はれます。橋田氏は、奥付に、昭和9年生、兵庫県出身、小樽商科大学卒、日新火災海上保険(株)勤務、とあり、仕事の傍ら、翻訳された方のやうです。「あとがき」を読むと、フランスにある「アラン友の会」の会員となつてをられ、不明な点はフランス人のご友人に尋ねられたことが分り、アランに対する思ひの強さと、翻訳に対する真剣な態度には、頭が下がります。小林秀雄の愛読者でもあつて、贈呈されたのではないではないかと想像されます。

なほ、アランが芸術について書いた本には、"Système des Beaux-Arts"(『芸術の体系』1920年)と"Vingt Leçons sur les Beaux-Arts"(『芸術二十講』1931年)の二つがあり、ここで取り上げる桑原武夫訳『藝術論集』は、前者を訳したものです。

* * *

アランが"Système des Beaux-Arts"を書き始めたのは、『精神と情念に関する八十一章』と同様に、第一次世界大戦の戦場でした。終戦後に書き足され、1920年に出版。1926年の改訂版では、9つの註が追加されてゐます。桑原武夫訳『藝術論集』は、この1926年版が底本です。

この本を、小林秀雄はどう読んだか。「アランの「藝術論集」」は、短い文章なので、全文を読んでみませう。

藝術を愛する人々は、美といふものを定義しようとも證明しようともしない、愛してさへゐれば、そんな必要がないからではなく、愛してゐることが美の定義も證明も不可能だとはつきり教へてくれてゐるからである。
これはわかり切つた事實であるが、このわかり切つた事實に即して、美學といふものを工夫しようとした人がない。アランはそれを試みた。
彼は藝術に關する獨特の説といふやうなものを編み出したのではない。さまざまな藝術が、實際に有する動かす事のできぬ組織システムを忠實に記述し説明しようと試みたのである。
一つ一つの藝術作品に對する自分の直接な確實な趣味判斷を信じて、これを純化する事。これが、各種の藝術が、めいめいの獨特の内容と形式を持つて、自足してゐる所以ゆゑんを知る唯一の道である事。
又、その事だけが、諸藝術の間の本當の關係を自ら僕等に教へるといふ事。さういふ事を納得させる仕事、アランは、これを坑道を掘り進めて行つた殆ど地下的と言つてよい仕事と言つてゐる。

(第五次全集 第7巻262頁)

桑原武夫訳には、アラン本人が「日本の読者の為に」と題した序文を寄せてゐます。上の引用に出てくる「坑道を掘り進めて行つた殆ど地下的と言つてよい仕事」といふアランの言葉は、この序文にあるものです。 

「各種の藝術が、めいめいの獨特の内容と形式を持つて、自足してゐる」といふ点については、アラン自身が、この本の序文に、「芸術の体系」といふ本の題名に関する注意といふ形で、次のやうに述べてゐます。

本の題名にだまされることのないように。わたしの述べる考えは、あらかじめ設定された上位の概念に依存するものではないし、すべての芸術を簡潔なことばで定義するような一般概念に通じるものでもない。わたしとしてはむしろ、ちがいと分離と対立のさまを示すことに努め、もって、可能なかぎり作品そのものに── 一つ一つが確固たる自足した存在としてある作品そのものに──きしたがおうとしたのだ。しかし、主題となる芸術がゆるぎなく存在するものであったがゆえに、分離や対立やちがいを通して相互の緊密なつながりが浮かび上がり、本の全体が「体系」の名にふさわしいものとなった。
(長谷川宏訳『芸術の体系』光文社古典新訳文庫、13頁)

2008年1月に出された長谷川宏氏による翻訳で、"Système des Beaux-Arts"が、現代の日本の読者に身近なものとなつたのは、嬉しいことです。長谷川氏は、その「訳者あとがき」で、桑原武夫訳『藝術論集』に触れてをられるので、一部、引用してみます。

桑原武夫訳『芸術論集』は、難解なアランの文章を初めて日本語に移した苦心の作で、私は一九六○年前後に手にしている。読んでよく分かったとはいえず、やや時が経ってプレイヤード版に収められた『スタンダール』や『バルザックと共に』や『定義集』などとともにこれを原文で読み、着眼のおもしろさと語り口の自在さに一驚したのだった。
翻訳するならアランの代表作の一つ『芸術の体系』に限ると思った。ただ、すでに日本語訳がある本だから、新訳として出すことにどれだけの意味があるのかが疑問だった。そこで、桑原武夫訳『芸術論集』の改訂版『諸藝術の体系』を取りよせて読んでみた。
訳文がいかにも堅苦しい。桑原武夫は、大いに話題を呼んだあの『第二芸術論』などに見るかぎり、気取りのない、率直明快なもの言いのなかに適度にユーモアもじえるといった文章家なのに、『諸芸術の体系』の訳文に限っては、原文にきすぎた直訳調で、とてもすらすらとは読み進めない。
が、いざ訳そうとしてアランのフランス語に向き合うと、論の脈絡をたどるのは容易なことではない。つまずいては前の段落へ、さらにもう一つ前の段落へと還り、また、そこを飛ばして先へと進み、論の切れ目まで来て改めてそこへ還っていく。そんな行きつ戻りつをなんどもくりかえした。そして、そうやって文意を読みとる上では、堅苦しい桑原武夫訳『諸芸術の体系』に大いに助けられた。原文と照らし合わせながらこの訳本を読むと、そうか、そんなふうに読むのか、と納得させられるところが何箇所もあった。そうは読めない、わたしはこう読む、というところも少なくはなかったのだが。

なほ、『アラン著作集5 芸術について』に収められてゐるのは、"Système des Beaux-Arts"ではなく"Vingt Leçons sur les Beaux-Arts"(『芸術二十講』1931年)の翻訳です。

* * *

アランの『藝術論集』あるいは『芸術の体系』は、非常に興味深い本ですが、私にはこれを十分に論じる用意がありませんので、小林秀雄が『藝術論集』に印をつけたところに基づいて、幾つか抜き出しながら、そのさはりをご紹介することとします。

『藝術論集』には、最初から最後まで、あちこちに全部で二百余りの印が付けられてゐます。傍線の場合もありますが、ページの上の余白に、横棒を引いたり、山形の印をつけたりしてゐる場合が大半です。黒インク、青インク、鉛筆、赤鉛筆の四つが使はれてをり、同じ場所に違ふ色で印が付されてゐる場合もあるのは、何度か繰り返し読んだからでせう。尤も、四種の筆記用具を使つてゐるので読んだのは四回とは限りません。

先づ、第一巻「創造的想像力について」です。この巻は、言はば総論で、芸術を考へる際の、アラン流の基本的な物の見方が述べられてゐます。アランが戦場で書いたのは、この第一巻の原形で、いくつかの章は、そのまま使はれてゐるやうです。最後の第十章では、アランが考へる様々な芸術が列挙されてゐます。下に掲げるのは、第七章「材料について」の一節です。

ここで肖像畫家の仕事を考へてみよう。彼がこれから取りかかる作品に使用すべき色彩を豫めすべて心の中で決めておく譯にゆかぬのは明かである。觀念は彼が制作するにつれて湧いて來る。あたかも繪の觀賞者におけると同じやうに、觀念は後から生まれて來る、そして畫家自身もまた生まれつつある自己の作品の觀賞者だといふのがより正確であらう。そしてこれこそ藝術家に固有なことである。天才は天與の恩寵を受けてゐて、自ら驚くといふのでなければならない。美しい詩は先づ企畫のうちにあつて、それから作られるのではなく、美しいものとして詩人に現れる。美しい彫像は彫刻家に、彼がそれを作つてゆくにつれて、美しいものとして現れる。

第二巻は、「舞踊と化粧について」と題され、身体を使ふ芸術が取り上げられてゐます。軍隊の舞踊、軽業師、衣装、流行などを芸術として論じるのはアランらしいところでせう。第八章「化粧について」の一節を見ませう。

自分はありのままに判斷される望みはないと諦めてゐる人が多い。それは自分と他人との間に、動物性がその表徴と僞瞞のとばりを擴げてゐるからである。自分の思ふことを言はうと欲するならば、心に浮ぶことをみな言つてしまつてはならない。同樣に自己のありのままの姿を示さうと欲するならば、まづ外見を抑制し、同時にそれを習慣と均衡に從つて構成しなければならない。さうしてはじめて、猿ではなしに一箇の人間が現れてくるのである。
そして女の自然のままの姿は、恐らく人間にとつてなほ一そうよそのものであらう。女はより弱く、より落着きを缺き、より變りやすいものであるから。だから諸君が女の真の表徴を捉へ得るためには、その女は化粧してゐなければならない。化粧し、變らぬ姿を示し、衣服をまとふその程度が少ければ、それだけその女は諸君にとつてよそのものであり、當の女自身にとつても亦よそのものとなるのである。

後半の部分は、長谷川宏氏の訳では次のやうになつてゐます。なほ、章題は「装飾について」と訳されてゐます。

さて、女性の自然なすがたは、男性のすがたよりも弱く、落ち着きがなく、不安定なものだから、違和感が大きいはずだ。だから、まわりがその人らしさをつかむには、装飾が欠かせない。装飾が少なく、安定性に欠け、着衣の部分が少なくなると、まわりの違和感がそれだけ増すし、当人も同じ違和感を感じる。
(『芸術の体系』光文社古典新訳文庫、100頁)

第三巻「詩と雄辯について」からは、第二章「記憶術としての詩について」の一節です。

詩は洗煉され規制された不可變的な雄辯であつて、共有的な思想に適するものである。もし他にまさつて緊密な、豐かな、心を打つものの言ひ方がありとするならば、誰しもこの貴い形式を忘れまいといふ欲求を感じるであらう。かうした形式が豫め知られてゐる律動(リヅム)に、またある昔の反復に出會ふと、記憶力に安全感を與へる。これは書物なしの朗讀になくてはならぬ條件である。詩が印刷されてしまふと、かういふ精神の喜びはさほどに感じられなくなる。思想といふものは對象をもたぬ限り浮浪的で形をなさぬものであることを決して忘れないやうにしたい。想像力がほかの言葉で邪魔をし、やがて全く無關係な思想が生まれてしまふのだ。殆んど讀書せず、また決してものを書かぬ人々においては、對象の知覺が失はれるとすぐに精神の彷徨状態、眞の錯亂を看取することができる。多くの人が、よく知りぬいてゐる機械の前では器用なばかりか、發明的でさへあるのに、權利、平等、正義、幸福、情念などに關するわづかの探求を試みても、幼稚きはまる思想を暴露するのはこの故である。

第四巻「音樂について」 第十章「音樂的表現について」から。

そこで私の思ふに、音樂の路は常に夢想から行動へ導くものである。或ひは悲しみから信念へといつてもよい。私は信念といつて希望とはいはぬ。希望は自己の外に救ひを求めるに對し、信念は自己のみで力を有し、あらゆる恐怖の覊絆を脱して冒險のうちに身を投じるからである。そして音樂は常に情念の動きを、それを癒やす動きへと連れ戻しつつ、詩以上に純粹化するやうに思はれる。だから、もし表現とは精神がいま一度救はれたといふ事實を常に示すものであるならば、音樂は純粹表現である。もし人が自己を抛棄してしまひ、自己を再び捉へることをしないならば、内的生は各人のうちにおいてどうなるだらうか、考へてみるがよい。われわれが自分自身について有する意識のうちにおいては、われわれは自己を支配するといふ行爲によつて自己の存在を再構成するといふ條件の下に置かれてゐる。すべて意識は覺醒である。そしてここでの逆説は、感情は認識を豫想する、といふことである。自己の再把握なくして感じる者は、感じてさへゐないのだ。純粹の恐怖は自己を認識しない。全き絶望も同樣である。要するに表現し得ないものは感じられたのではない。叫び聲や痙攣は自分自身をしか表現しない。そして恐ろしさとは正にかうした表徴、何も意味しない表徴の靜觀に伴はれる感情である。しかし表現が生まれるのは、人間の形が再び現れる瞬間においてである。そして音樂は恐らく最も純粹な、最も脆弱で最も力強い、最も容易に形をくづされ易い人間の形である。

第五巻「演劇について」 第七章「涙について」から。

憐憫といふものは、行動がそれを擦りへらすのでない限り、堪へ難いのが常である。行動を伴ふことなく、しかも反省され味はれる觀客の憐憫は、涙なき絶望に至るものであらう。崇高の感情といはれるものは、これに反し、外的な支へを必要とせぬ一つの希望、さらに適切にいへば、各人が自己の制御と超克の力に對してもつ信念である。そして悲劇の力のすべては、あのやうに身近かに又あのやうに遥かに感じられる不幸の眺めによつて、超人的宇宙的な情念の激勵によつて、これらの禍をすべての禍に結びつける象徴によつて、しかもそれらのもののうちにある秩序そのものによつて、そしてこれらすべてを結びつける詩的な力によつて、われわれをかかる境地に導き、またそこにおいてわれわれの助けとなる。かくして純潔と勝利がこれらの廢墟の上に据ゑられる。純粹な涙の意味するところはかくの如きものである。偉大な作品はだからわれわれを怖れさせたり、われわれに苦痛を與へるやうな卑しい眞似はせず、觀物のみによつて、對象の地位にまで引き下げられた不幸によつて、われわれを恐怖と憐憫とから一瞬の間清めてくれる。アリストテレスの言はんとしたのは疑ひもなくこのことである。

この部分は、原文が、次から次へと例を挙げる形で書かれてゐて、文法構造の違ふ日本語に移し難い部分なので、長谷川宏氏の訳もご紹介します。

同情は、行動によって消費されるのでないかぎり、つねに耐えがたいものとなる。行動に出ることなく、その上、反省と趣味に身を任せる観客の同情は、いうならば、涙なき絶望へと行き着きかねない。それとは逆に、崇高な感情は外的な支えのない希望であり、もっとうまくいえば、事態を支配し克服する自分の力を信じるような心の状態である。実際、悲劇の力はすべてわたしたちをそうした状態へと導く。遠近さまざまの風景や不幸、超人的で宇宙的な狂乱、さまざまな悪をすべての悪と結びつける象徴、いやさらに、物事の秩序そのもの、そして物事一切を結びつける詩の力によって、わたしたちがそうした状態にむかうのを助けるのだ。かくて、悲劇の廃墟の上に、純粋さと勝利が確立される。それが純粋な涙の意味だ。だから、すぐれた作品はわたしたちに恐れや苦しみをもたらすような野卑なことはしない。恐怖や苦痛は舞台上にあらわれるだけだ。対象の次元に降りてきた不幸によって、こちらは一時的に恐怖や同情から浄化されるのだ。アリストテレスの言いたかったのもおそらくはそういうことだった。
(『芸術の体系』光文社古典新訳文庫、221頁)

なほ、「遠近さまざまの風景や不幸」と訳されてゐる部分は、桑原武夫訳にあるやうに、「こんなに近くにありながらこんなに遠い風景や不幸」とするほうが分りやすいでせう。また「恐怖や苦痛は舞台上にあらわれるだけだ。」といふ部分は、桑原訳のやうに、「見世物となり、対象物となつた不幸によつて」浄化する、と読むことも可能でせう。

第六巻「建築について」 第五章「裝飾について」から。

同じ理由によつて、燒繪硝子の藝術は鉛の骨組を隱さうとしてはならない。第一それは不可能である。誤魔化しのきかぬかうした藝術は、きはめて僅かの手段しかもたぬ陶器裝飾の藝術と同じく、彫刻家や畫家にとつて眞の學校といふべきである。それにまた裝飾の本質は、裝飾せんとするものの形に先づ從ふ點にある。ここで裝飾の藝術と書かれた言語の作品との間に著しい類似が認められる。語句の凝つたものは、何時も醜いものだが、それはかういふ譬へが許されるならば、石材の繼ぎ目を隱さうとし、事物を描くために語を歪めることに存するのである。かういふ表徴によつて、やがて亡ぶべき作品か否かの見分けがつく。何故なら普通言語の單語と文章法によるつながりが、ここでは硬い石と漆喰に相當するからである。そこですべて束縛のない裝飾は醜いといふ考へにもう一度戻ろう。衣裳は殆んど何時の場合にも、他の裝飾されたものよりスティルに富むこと、また何故着色刺繍が、單に繪畫たるにすぎぬ繪畫よりも容易に人を喜ばすか、それらの理由はここに存するのである。しかし衣裳の必要から生まれた羅紗地が刺繍を一そう美しく見せることもまた何人にも氣付かれることである。着物の縁取りの希臘紋 (grecque) も飾つてある時より、人間が着用して動いてゐる時の方が一そう美しい。かういふ種類の考察も、あらゆることがそこに持出され、また支持された〔かうした藝術上の〕問題においては、極めて有益である。あらゆる藝術の歴史は、相續いで現れ、また理解できかねるやうなさまざまの趣味の過ちを通して、傑作から傑作へと進展するものである。しかしともかくそこから一つかなり明瞭な教訓が生まれる。即ち餘り自由に過ぎる藝術は常に路を踏み迷ふといふことである。藝術は作品の修飾であり、すべて作品は職人のものだともいへよう。何故なら、自由が作品の外にあるものでないことは明かであり、また人は、あたかも必要に迫られて德を行ふやうに、必要に迫られて裝飾し、美をつくるのであるから。要するに一つの形は常に何ものかを捉へ、また包むのでなければならない。言ひかへれば、形が物でなければならない。

第七巻「彫刻について」 第三章「運動について」から。

ところで生きた人間は彫刻のやうに靜止の姿を保つことはできない。人に見詰められてゐる時は殊にさうである。自己の思想を他人に隱すために、いなむしろ自分自身に隱すために、行動するといふのが自然の動きである。だから社交界は影の王國にすぎぬ。沈默と孤獨によつて人間を人間に示すには、彫刻家によつて素朴にも發見されたあの石の立會人を必要としたのであつた。彫像のうちには多くの無關心が存することに注意したまへ。色彩によつて描かれた肖像は媚態をもち、眼付きによつて自己を守ることができるが、彫刻は何人をも見ようとしない。人間は行動のうちに自己を示現する、といふのが定り文句だが、私はむしろ人間はそこに自己を隱すといひたい。行動は行動自身をしか表現しない、究極において場所的變化をしか表現しない。愚しい脚本が行動にみちてゐる所以である。それに行動はまだしもよいが、不動の行動、これ以上うつろなものが又とあらうか。だからかの打ち、走り、又は脅す石膏製の人間どものうちには、常に狂亂の相がある。そしてそれらを考察することによつて、恰も水の砂のうちにおける如く、思想は行動のうちに失はれることを理解し得るであらう。實際、これらの興奮した人間の姿においては、すべてが外的である。すべてが飜譯される、即ち取るに足らぬものである。

第八巻「繪畫について」 第四章「壓制について」から。

恐らくスタンダールと共に、「繪畫よ、さらば。自由はさらに尊い」といはねばならぬかもしれない。しかしながら自由は、氣分ユムールの表出を許すことによつて、顔をくずすものである。氣分はある時は無邪氣な虚榮心を、ある時は疲勞を、しばしば狂亂と絶望を描き出すが、深みもなく、持續の保證も伴はない。多くの場合途方にくれた、いつも俗惡な動物的表情である。内的生が表徴によつて食ひつくされるのだ。そこで畫家は顰め面に引きとめられ、戲畫が生まれる。しかしまたそこでは繪畫の有する諸手段は全く無用に歸する。壓制者はその上禮節を強制し、またそのことによつて、畫家が把握する種類の美を強制するといふ美點をもつてゐる。儀式的なものや宗教上の行もこれとほぼ同一結果に至る。だから畫家が好んで冥想、恍惚状態そして祈祷を再現したのも偶然ではない。これらの感情には通俗的な表現がないからではない。容易な反證が眼にとまりすぎる位だ。ただ人間の顔はさうした際には、強烈な表徴から解放され、生きることの最も深い理由、即ち對象なき信仰のみがそこに現れるからだ。

第九巻「デッサンについて」 第三章「運動について」から。

ところでデッサンの線も亦われわれを身振りと運動に誘ふ。線が殆んど實質をもたぬ時において殊にさうである。何故ならすべて細部はわれわれを引き止めるから。かくしてわれわれは線によつて運動を知覺する氣持にさせられる。要するに藝術家は、彼の決意によつて、われわれを誘引し、またさらに疑ひもなく、さうすることによつて自分自身も再現せんとする運動によつて導かれつつ、線の形によつて、われわれの氣持を急激な又は緩慢な行動に向はせる。かくして美しいデッサンは今にも動き出しさうに何時も感じられる。これに反してすべての繪畫は、運動を模寫せんとする時でさへ、その繪のもつ諸細部のために凝視の前に停止する。凝視が色に問ひかけるからである。空ろなデッサンのもつ力がここで理解されるのだ。ここでは形は運動によつて、運動は線によつて示される。デッサンの關するすべての規則は、即ちスティルの諸規則は、ここから由來するのである。

第十巻「散文について」 第三章「散文と雄辯」から。

何故なら、散文藝術のすべては、その各部分がその所を得、相互に支持し合ふに至るまで、讀者の判斷を定着せしめぬことにあるのだから。そして昔の人がこれを束縛を解かれた文章と呼んだのは、かくして散文の讀者は自由であつて、勝手に歩み、好きな時に立ちどまり、好きな時に歩みかへす事実を巧みに言ひ現したものである。しかしながら散文は、もしその歩みによつて又その鋭い筆致によつて、その豫想外の句切りによつて又その逆説的な閃きによつて、判斷の對象を眼とともに歩くやうにして、あの佇立または見なほしにまで讀者を誘ひ得ぬならば、それは一つの藝術とはいひ得ないであらう。かくて演説的語句の構造は方向を定められて居り、誘ひゆくものであるに對して、散文の構造は注意力を分散させ、擴大させながら、しかも常にそれをしつかと把持することを忘れない。このことによつて、散文と雄辯の間には、推論と判斷の間におけると同樣の相違が存することが解るのである。しかし、この相違は多くの人には目新しいかも知れない。もし特にこの點をはつきりさせたい讀者がゐるならば、私はデカルトとモンテーニュを薦める。

アラン『藝術論集』の魅力は、それぞれの芸術の特徴を際立たせる筆者の手腕にあるので、短い引用だけでは、うまく伝へられません。是非、手にとつてご覧ください。

* * *

小林秀雄とアランには、仕事の仕方や関心の対象など、共通点が多くあります。すぐに気がつく表面的なものだけでも、ジャーナリズムとの係りが深く、短い文章を発表する傍ら、何冊かの大きな本を書いてゐること、アランは哲学、小林秀雄は文学といふ別々の分野から出発しながら、二人とも芸術全般への深い関心を持つてゐること、晩年に神話を研究したこと、等が挙げられるでせう。

勿論、両者には大きな相違点もあります。政治思想の面では、小林秀雄が政治との係りを避けたのに対し、アランは積極的に参加しようとしました。思想的な傾向も、アランは個人の自由、平等、非宗教を主張する「ラディカル」の立場で、反権力の姿勢を明確にしてゐますが、小林秀雄は、大まかには、保守的な思想家だ言へるでせう。戦争が起きたらどうするか、といつた具体的な問題に直面した際の対応を見ると、二人の差は、それほど明瞭ではなくなるのですが。

二人が育つた文化的な環境も大きく異なつてゐます。アランは西洋文明の中心国フランスに生れ、プラトン、デカルトなど、フランス人の誰もが学ぶ古典を糧として自らの思想を形成しました。他方、小林秀雄が生れた日本は、明治以前の漢文を中心とした教養が失はれる一方、急激に流入した西洋文明は未消化だといふ、文化的な混乱状態にあり、小林自身も、自らの精神的な基盤を求めて彷徨(さまよ)ふことを余儀なくされました。

また、文章の書き方も対照的です。アランは一度書いたことは消さずに文章を完成させ、気に入らなければ最初から書き直したと言はれてゐますが、小林秀雄の文章は、最初に書いたものを削りに削つて出来てゐます。文章を書くことが、あらかじめ出来上がつた構想に基づき内容を論理的に展開するといふ機械的な作業ではなく、その度ごとの勝負だと考へてゐた点は、共通してゐますが。

これらの違ひはあるとは言へ、小林秀雄は、彼が取上げた偉人の中で、誰よりもアランに似てゐると言へるのではないでせうか。小林秀雄を「東洋のベルクソン」とか「昭和の本居宣長」とか呼ぶことは無理だと思ひますが、「日本のアラン」だと見るのは、必ずしも牽強付会ではないでせう。(註)

かうした二人の関係は、これまでにも指摘されてゐます。例へば、ウェブで閲覧可能な以下の論文でも、両者の係はりについて述べられてゐます。

野村圭介氏によるもの:2点

「アランと小林秀雄 -読書についてー」 1979年7月『早稲田商学』278号
「アラン・小林秀雄・自然」 1985年1月『早稲田商学』309号

小川亮彦氏によるもの:3点

「翻訳, そして, 散文の論理 :小林秀雄におけるアランの受容について(I)」
1993年3月筑波大学比較・理論文学会『文学研究論集』10号
「初期文芸時評とフランス文学 :小林秀雄におけるアランの受容について(II)」
1994年3月筑波大学比較・理論文学会『文学研究論集』11号
「<語り手>の造形と一回性のpoesie ―「無常といふ事」の成り立ち― 小林秀雄におけるアランの受容について(III)」
1995年3月筑波大学比較・理論文学会『文学研究論集』12号

いづれも大変参考になる論文ですが、ここでは、野村圭介氏の文章を、一部ご紹介しませう。

戦争中から戦後、そして『本居宣長』の現在に至るまで、周知のように小林秀雄は、もの言わぬ美術の世界、とりわけ我国の古典の世界にいよいよ深く沈潜していく。彼はもはやアランを語ることはない。私の誤りでなければ、たった一度だけ「私の人生観」(昭和二十四年)の中でアランに言及している以外、小林が彼にふれて書いたものをしらない。しかし、この唯一の例外は特記するに価する。何故ならそれは、小林が折に触れくり返し執拗に説き、今なお説いて倦まないこと、すなわち歴史を外側からながめ、諸々の補助概念によって把握し合理的に整合された歴史など形骸にすぎぬ、今現に生きている自分を離れて歴史などはない、歴史を知るとは己れを知ることだ、といった彼の根底的な信念といおうか、思想に密接につながるものであるから。
(「アランと小林秀雄 -読書についてー」)
戦後から現在に至る、成熟し円熟した小林秀雄の思想に、私はアランのそれと同一のものをしばしば強く感じる。アランに言及したものはごくわずかである。がしかし若年期のランボオの嵐が静まった後、ジッドよりも、ヴァレリーよりも、さらにはベルグソンよりも、その他如何なるフランスの文学者哲学者よりも、小林はアランに深い親近感を懐き、確かな信頼を寄せてきたのではないかと、ひそかに私は感じている。
(「アランと小林秀雄 -読書についてー」)
しかし筆者は,あまりここで,影響云々を言いたくはない。ほかならぬ小林秀雄の言い草を借りれば,「影響といふ便利な言葉を乱用し」たくない。むしろしばしば,その空しさを思う。考えてみればいい。いや,別に頭をひねる必要はないだろう。二人の文章を,一つはフランス語,一つは日本語の文を,各々一頁でもよい,虚心に読んでみれぱ,耳をすましてその「肉声」を聞いてみれぱ,二人がどれほどにも異なった文体を持つか,異なった文勢を持つかがわかるだろう。ほとんど長調と短調ほどにも違う。二人がまるで別の個性,別の資質であることがわかるだろう。時代も環境も風土も違う。伝統も違う。が,それにもかかわらず,この二つの偉大な精神は,というより私が愛読してやまぬ二人は,時に,いやしぱしぱと言っても良い,その声を唱和させる,応和させる。そのさまを,筆者は美しいと思う。その照応を,うれしく感じる。
(「アラン・小林秀雄・自然」)

これらのご意見に、私は共感します。


(註) 小林秀雄は天才を甦らせることを目指して仕事をした人ですが、アランも同じことをしてゐたことが1928年に行はれたインタビューの記事で分かります。カナダ・ケベック大学のサイトのAlainの"Ideés et les Âges"のページに参考文献として収められてゐる、アランのインタビュー記事"Une heure avec Alain"がそれです。一部を下に拙訳とともにお示しします。

Récemment, j'ai saisi l'occasion d'écrire sur Descartes, non pas avec l'intention d'éclairer tel ou tel point de détail, mais, j'ose dire, pour ramener Descartes à la vie comme Ulysse fait pour les ombres. Ulysse leur donne du sang à boire. J'ai voulu donner un peu de sang à boire à Descartes, de façon qu'il puisse parler comme un homme parle.
 先頃、デカルトについて書く機会があつたので、あれこれの細かな点を明らかにしようとするのではなく、敢へて言へばオデュッセウスが亡霊にしたやうに、デカルトを甦らせようとした。オデュッセウスは血を飲ませた。私はデカルトに少し血を飲ませて、人が語るやうに語らせたいと思つた。
 J'ai cherché à retrouver dans la doctrine de Descartes le mouvement de la vie, l'accord de l'inférieur avec le supérieur, le salut de Descartes, ou bien, pour dire autrement, la poésie propre à Descartes, et je pense y avoir réussi autant que je m'en jugeai capable.
 デカルトの教義の中にある生命の動き、下にあるものと上にあるものとの調和、デカルトの救ひを、別の言ひ方をすればデカルト固有の詩情を、見つけ出さうとした。私は、自分の力の限りだと判断するところで、それに成功したと思つてゐる。
 J'ai voulu recomposer une seule trajectoire qui aille depuis Descartes priant et disant son chapelet jusqu'à Descartes métaphysicien. Toutes les pensées doivent être selon cette trajectoire ou bien elles ne sont rien. Je pense qu'il faut ainsi, toutes les fois qu'on le peut, ressusciter les morts par une pieuse imitation.
 数珠を繰つて祈りを捧げるデカルトから形而上学者デカルトに至るただ一つの道筋を再構築したいと思つた。あらゆる思想はこの道筋に沿つたものでなければならず、さうでなければ何物でもない。敬虔の念を持つて死者に倣ひ彼らを生き返らせるには、出来る時にはいつでも、かうすべきだと考へてゐる。
 Cette méthode m'est naturelle, et je l'ai suivie en toutes mes réflexions. J'ai toujours réfléchi par évocation des morts, par exemple en me rendant Platon présent tant que j'ai pu. Platon en chair et en os; que me dit-il? Platon dit beaucoup. Aristote est plus lointain et plus sévère. Descartes est comme un ami. Auguste Comte m'a parlé aussi beaucoup et de très près. Je crois avoir saisi et imité son mouvement.
 この方法は私には自然なもので、何を考へるときでもこれに従つて来た。いつでも死者を呼び出すことで考へた。例へばプラトンが、できる限り目の前にゐるやうにした。血肉を備へたプラトンだ。彼は私に何を言ふか。プラトンはたくさんのことを言ふ。アリストテレスはより遠く、より厳しい。デカルトは友のやうだ。オーギュスト・コントも多くをすぐ近くで語つた。私は彼の動きを捉へたと思ひ、それを真似た。

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