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福澤撰集


『福澤撰集』は、岩波文庫の一冊で、昭和13年7月発行の第二刷です。「小林秀雄文庫」に残されてゐる福澤諭吉の本は、これ一冊です。この本には、『福澤全集諸言』『學問のすゝめ』『帝室論』『瘠我慢の説』『明治十年丁丑公論』『女大學評論』『新女大學』の他、『時事論集』といふ題の下に幾つかの短い文章が収められてゐます。本には、鉛筆と青インクで傍線や○印などが付けられてゐて、少なくとも二度は読んだことが窺へます。

福澤諭吉は、小説家や画家などの芸術家を除けば、明治以降に活躍した日本人のうちで、小林秀雄が詳しく論じてゐる唯一の人物だと言へるでせう。小林は、先づ、『福翁自伝』を読んだやうです。1937(昭和12)年の『福翁自傳』に、次の様に書いてゐます。

この本は實に面白い。近頃は讀書の癖がすつかりよくなり、寢床の中で本を讀むなどといふ事も絶えてないが、こいつはつい床の中まで持ち込んで寢そびれちまつた。
福澤諭吉の全集は十七巻に上る浩瀚かうかんなものださうだが、この自傳を讀んで別に他の著作を讀みたいといふ氣は起こらなかつた。今日の讀者の心を未だ捕へる事が出來る要素、彼の著書のうちにあるさういふ要素は、ことごとくこの自傳のうちに凝つてゐるに相違ないといふ印象を受けた。あのあわたゞしい時勢にあわたゞしく考へ、巧みに時の流れに飛び乘つたこの啓蒙思想家の思想に大したものがあらう筈がないといふ風に漠然と考へてゐたが、この本はそれをはつきり掴ませてくれた。自分はたゞ文明文明と叫んで來た男だ、と彼は正直に書いてゐる。

「別に他の著作を讀みたいといふ氣は起こらなかつた。」と書いてゐるのですが、小林秀雄は、この後、『學問のすゝめ』、『文明論之概略』などの著作を読み、語ることになります。福澤の名は、短く言及されたものも含めて、以下の作品に登場してゐます。

『福翁自傳』 1937(昭和12)年 7月
『文藝批評の行方』 1937(昭和12)年 8月
『疑惑 I』 1938(昭和14)年 4月
『批評家と非常時』 1940(昭和15)年 8月
『感想』 1941(昭和16)年 1月
『歴史と文學』 1941(昭和16)年 3月~ 4月
『沼田多稼藏「日露陸戰新史」』 1941(昭和16)年 4月
『知識階級について』 1949(昭和24)年10月
『「ヘッダ・ガブラー」』 1950(昭和25)年12月
『考へるといふ事』 1962(昭和37)年 2月
『福澤諭吉』 1962(昭和37)年 6月
『天といふ言葉』 1962(昭和37)年11月
『常識について』 1964(昭和39)年10月~11月

福澤諭吉に対する見方も、この間に、かなり変はつてゐるのですが、この変化は、先づ、『文明論之概略』を読んだことで生じたやうです。

先日、福澤諭吉の「文明論之概略」を讀んで、著者の精神が今も尚新しいのを痛感した。當時、文明といふ言葉が流行した樣に、今日では文化といふ言葉が流行してゐるが、當時、文明といふものを見た福澤諭吉の眼力の樣な生ま生ましい眼力で、今日の文化批評家が、文化といふものを見てゐるかどうか、僕には甚だ疑問に思はれた。
(『感想』)

ここでは、「當時の民心の騒亂、事物の紛擾」を前にして、さうした時代に生きる事が、「恰も一身にして二生を經るが如く一人にして兩身あるが如し」といふべき「僥倖」だと観じた福澤諭吉の「非凡な眼力」について、詳しく述べてをり、その後の作品でも、繰返しこの点に言及してゐます。

そして知識人の選良が期せずして到達した大問題は、わが國の傳統的文化と新しい西洋の文化とをどういふ具合に統一したらいゝかといふ事であつた。漱石も鴎外も一生涯この問題に惱んだ。福澤諭吉も言つた樣に、日本の知識人の生は二重になつてゐる。この大問題を離れてこれからの日本の文化はない。何故かといふとそれは日本人自ら解決するより外はない日本の文化の個性だからだ。
(『知識階級について』)
不平を言つても始るまい。寧ろ、福澤諭吉の樂天主義は、今日でも未だ有益だと思つてゐる方がいゝだらう、彼の考へによれば、われわれは、西洋文明といふ異物の到來によつて、「あたかも一身にして二生を經るが如き、一人にして兩身あるが如き」幸運を經驗してゐる。これは「既に體を成したる文明の内に居て、他國の有樣を推察してゐる西洋人輩」には到底味ふ事の出來ぬ日本の識者の僥倖げうかうである、といふ。處で、彼の樂天主義の美點は、彼が次の樣に考へるところにある。僥倖とは何か、「僥倖とは、即ち實驗の一事」である、自國にあつて、他國が實驗出來るといふ好機を掴んでゐるといふ事だ、「二生相比し、兩身相較し、其前生身に得たるものを以て、之を今生身に得たる西洋文明に照して、其形影の互に反射するを見ば、果して何の觀を爲す可きや」。
(『「ヘッダ・ガブラー」』)

なほ、上の引用文で「實驗」とあるのは、今の言葉の科学的実験といふ意味ではなく、実体験といふ意味に取るべきでせう。江戸時代の文化を生き、そして今や西洋の文化を生きることを余儀なくされてゐる、さうした明治時代の日本人の有り様を述べた言葉だと思ひます。かうした日本の文化と外国の文化との間にあつて、二重の生活を強ひられるといふ問題は、小林秀雄自身の問題でもあり、また、本居宣長の問題でもあつたと言へるでせう。

戦後の1962(昭和37)年の『福澤諭吉』は、福澤を主題に論じた文章ですが、ここでは、さらに、『學問のすゝめ』『痩我慢の説』『丁丑ていちう公論』『福澤全集緒言』『福翁百話』が出てきます。『福翁百話』以外は、「小林秀雄文庫」に残された『福澤撰集』に収められてゐる文章です。

このあたりになると、福澤に対する評価は、『福翁自傳』の頃の「巧みに時の流れに飛び乘つたこの啓蒙思想家の思想に大したものがあらう筈がない」といふものとは、殆ど正反対になつてゐます。

言ふまでもなく、福澤諭吉は、わが國の精神史が、漢學から洋學に轉向する時の勢ひを、最も早く見て取つた人だが、この人の本當のえらさは、新學問の明敏な理解者解説者たるところにはなかつたのであり、この思想轉向に際して、日本の思想家が強ひられた特殊な意味合ひを、恐らく誰よりもはつきりと看破してゐたところにある。
(『福澤諭吉』)
福澤は、西洋文明に心醉し、巧みに時勢に乘じた人であり、彼の實學は世を益したが、思想家としては淺薄を免れないと考へる人も多いやうだが、私は採らない。何はともあれ、優れてゐた人間であつた事は確かなら、その優れてゐた所以を研究すれば、私には足りるやうである。くどいやうだが繰返す。彼は、生れ合はせた時と場所との爲に、實にさつぱりと己れが捨てられた思想家だと思ふ。
(『天といふ言葉』)
* * *

小林秀雄は、福澤諭吉について語ることで、何を言はうとしたのでせうか。1962(昭和37)年に、「考へるヒント」の一つとして書かれた『福澤諭吉』について、少し詳しくみてみませう。

『福澤諭吉』の最初の四つの段落では、上に触れた「一身にして二生を経る」といふ「僥倖」について、『文明論之概略』の緒言を基に述べてゐます。第五段落からは、『學問のすゝめ』に話が進み、「私立」といふ考へ方が主題となります。今の言葉では、「私立」といふのは、「公立」の対語として、学校の形容くらゐにしか使はれませんが、福澤の言ふ「私立」は、官に依存せず、国民が自らの力で立つ、といふ考へから出てゐる言葉です。

この段落の初めの、「彼の「學問のすゝめ」は、洋學のすゝめではなかつた。」といふ文に、注目すべきでせう。福澤諭吉は洋学を勧めた、といふのが一般的な見方ですから、一見、非常に逆説的な言葉です。しかし、小林秀雄は、「洋學はすゝめるまでもない急激な流行であつた」ので、むしろ、福澤の眼に映つてゐた問題は、「西洋者流は時流には乘つたが、自覺を缺いて」をり、「獨立の丹心の發露」といふものが見られないことであつた、と考へるのです。「彼等の人格は分裂してゐるのだ。」

福澤諭吉の直面してゐたのは、小林秀雄も引用してゐる部分ですが、

民間の事業十に七八は官の關せざるものなし是れを以て世の人心益其風に靡き官を慕ひ官を頼み官を恐れ官に諂ひ毫も獨立の丹心を發露する者なくして其醜體見るに忍びざることなり

といふ当時の日本の現状でした。福澤は、「日本には唯政府ありて未だ國民あらずと云ふも可なり」とも言つてゐます。(『福澤撰集』から引用してゐます。岩波文庫版『学問のすゝめ』では、41頁。)

これらの文は、『學問のすゝめ』の四編「学者の職分を論ず」にあります。福澤には、一国の力は国民の独立心を基礎としてゐるといふ考へがあつて、その独立心を育てることこそ、学者の使命だと考へてゐたやうです。

小林秀雄は、かうした福澤の考へを十分に理解してゐたと見て良いでせうが、その関心は、変化の激しい世の中で、人は如何に生きるべきか、といふ倫理的な問題にあつたやうに見えます。

「學問のすゝめ」は科學方法論ではないし、「文明論之概略」は、新文明説入門でもない。福澤諭吉といふ人間が賭けられた啓蒙書なのである。過渡期とは言葉ではない。保守家と洋癖家との議論の紛糾ではない。自らが、めいめいの工夫によつて處すべき困難な實相である。處すべき實相を答案の用意ある問題にすり代へてはならぬ。過渡期は外に在る議論の對象ではない。「一身にして二生を經る」君自身の内的な經驗そのものである。これが福澤の説いた「私立」本義であり、彼の啓蒙が目指したものだ。これは難かしい事であつた。今日ではもう易しい事になつたと誰に言へよう。過渡期でない歴史はない。
(第五次全集、第十二巻、333頁)

小林秀雄は、また、福澤諭吉が、西洋文明の優れた点を強調しながらも、日本の独立といふ基本的な課題から眼を離さなかつた点に、読者の注意を促してゐます。「福澤としては、慶應義塾の學生の爲に」で始まる第十六段落に引用された『福澤全集緒言』の一節は、かうした福澤の考へを良く示したものだと言へるでせう。

鳥羽伏見の戦の後、江戸に還つた徳川慶喜を追ふ形で、東征軍が江戸に迫つた折、外国公館と縁のある人々の中には、その雇用者であるといふ証明書を貰つて、「官軍乱暴の災」を免れようとする人達がをり、福澤諭吉の許にも、米国公使館から、証明書を出す用意があるとの話が届いた際の、慶應義塾内での議論で出された意見です。

米大使の深切は實に感謝に堪へずと雖も、そもそも今囘の戰亂は我日本國の内事にして外人の知る所に非ず。吾々は紛れもなき日本國民にして禍福共に國の時運に一任するこそ本意なれ、東下の官軍或は亂暴たらんなれども、唯是れ日本國人の亂暴のみ、我々は假令ひ誤て白刃にたふるることあるも、いやしくも外國人の庇護を被りて内亂の災を免れんとする者に非ず、西洋文明の輸入は我々の本願にして、彼を學び彼を慕ひ畢生ひつせい他事なしと雖も、學問は學問なり、立國は立國なり決して之を混淆こんかうす可らず
(第五次全集、第十二巻、336頁)

この発言をしたのは、福澤の友人で慶應義塾の塾長にもなつた小幡篤次郎の実弟、仁三郎で、福澤は「十餘年前米國遊學中に病死」と註を付してゐます。なほ、原文では、「米大使」は「米公使」です。

とは言へ、福澤諭吉が単純な愛国主義者ではなかつたことは勿論で、小林秀雄は、『痩我慢の説』を取り上げながら、この点についても丁寧に書いてゐます。

「痩我慢の説」は、「立國は私なり、公に非ざるなり」といふ文句から始つてゐる。物事を考へ詰めて行けば、福澤に言はせれば、「哲學流」に考へれば、一地方、一國のうちで身を立てるのが私情から發する如く、世界各國の立國も、各國民の私情に出てゐる事は自明な筈である。これは「自然の公道」ではなく、人生開闢かいびやく以來の實状である。 この物事の實を先づ確めて置かないから、忠君愛國などといふ美名に、惑はされるのである。高が國民の私情に過ぎぬものを、國民最上の美德と稱するのは不思議である。世人は、物を考へ詰めるのを嫌がるから、「哲學の私情は立國の公道」であるといふこの不思議な實社會の實状が見えない。
(第五次全集、第十二巻、339頁)
「哲學の私情は立國の公道」といふ明察を保持してゐなければ、公道は公認の美德と化して人々を醉はせるか或は習慣的義務と化して人々を引廻すのである。これは事の成行きであり勢ひであつて、これに抵抗しないところに、人間の獨立、私立があるわけがない。
(第五次全集、第十二巻、340頁)
精神の自立をすゝめようとする福澤の目には、「古の政府は民の力をくじき、今の政府は其心を奪ふ。古の政府は民の外を犯し、今の政府は其内を制す」といふ有樣が見えてゐた。「學問のすゝめ」は「必ず我輩の任ずる所にして、先づ我より事の端を開く」事であり、「政府の能くする所に非ず、又今の洋學者流も依頼するに足らず」と考へてゐた。これは「痩我慢の説」と成らざるを得ないものである。「痩我慢」といふ言葉は俗語だが、福澤の、この言葉の使ひ方は「哲學流」なのである。といふのは、福澤の考へによれば、例へば、「士道」といふ高級な言葉は、人々に有難がられて、直ぐ俗化するが、「痩我慢」と言つて置けば、これ以上俗化する心配は要らない、といふ意味だ。
(第五次全集、第十二巻、340頁)

「痩我慢」といふ俗語を用ゐた福澤諭吉の意図を、ここまで踏み込んで考へた人は、少いのではないでせうか。

* * *

『福澤諭吉』は、『學問のすゝめ』の十三編「怨望の人間に害あるを論ず」に関する論で締めくくられてゐます。末尾の部分を読むと、小林秀雄の眼に映つてゐた当時の日本の問題が何であつたかが、浮かび上がつて来るやうに思はれます。

この怨望といふ、最も平易な、それ故に最も一般的な不德の上に、福澤の「私立」の困難は考へられてゐた。もし、さうでなかつたら、彼は「私立」を説いて、「獨立の丹心」とか「私立の本心」とかいふ言葉が使ひたくなつた筈もなかつた。「士道」が「民主主義」に變つても、困難には變りはない。「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は、「私立」の内を腐らせる。福澤は、この事に氣附いてゐた日本最初の思想家である。

「民主主義」が「私立」の内を腐らせるといふ部分を読んで、小林秀雄が民主主義を否定したと早合点する人もゐるかもしれませんが、真の民主主義に必要な私立を説かうとしてゐたのだと考へるべきでせう。

しかし、やはり、誤解はあつたやうです。同じ年の十一月の「考へるヒント」には、『天といふ言葉』といふ題で文章を書いてゐますが、その中に、かういふ一節があります。

前に、福澤諭吉の思想に觸れた折、彼の豪さは、單に、西洋文明の明敏な理解者、紹介者たるところにあつたのではなく、そのこちら側の受取り方なり受取る意味合ひなりを、誰よりもはつきりと考へてゐた處にあつた、外來の知識は、私達に新しい活路を示したが、同時に、新しい現実の窮境も示した事を、見抜いてゐた點にあつた、それに就いて、管見を述べたのだが、未知の讀者から批判や質問を受けて、問題の微妙を改めて感じた。
(第五次全集、第十二巻、367頁)

小林秀雄にとつて福澤諭吉とは如何なる人物であつたかを示す文を、この文章から、いくつか引用してみませう。

福澤といふ人は、思想の激變期に、物を尋常に考へるには、大才と勇氣とを要する事を證してみせた人だ。彼の思想の力或は現實性は、面倒な意味でのその實證性或は論理性にあるより、むしろ普通の意味で、その率直性にあつた、と私は考へてゐる。
(第五次全集、第十二巻、367頁)
福澤の文明論に隱れてゐる彼の自覺とは、眼前の文化の實相に密着した、默してゐる一種の視力のやうに思へる。これは、論では間に合はぬ困難な實相から問ひかけられてゐる事に、よく堪へてゐる、困難を易しくしようともしないし、勝手に解釋しようともしないで、たゞ大變よくこれに堪へてゐる、さういふ一種の視力が、私には直覺される。「恰も一身にして二生を經るが如」き經驗とは、その直かな表現なのである。
(第五次全集、第十二巻、368頁)
福澤は、東西文明の激突によつて生じた文明の紛糾の條件なり原因なりを分析し、その解釋解法を求めた人ではない。私達が出會つた文明の紛糾自體の形に、眼を据ゑた人だ。見れば見るほど、その姿は日本獨特のものと映り、その個性を、そつくり信じた人だ。彼は、恰も、林檎を描かうとして林檎の個性を見て信ずる畫家のやうに、文明の歴史的個性を見てこれを信じたのであり、この無私なヴィジョンのうちだけに、活路を見出した。自分の弱點を正すには、他人の美點が參考になるといふやうな中途半端な事を考へた人ではない。
(第五次全集、第十二巻、369頁)

かうした福澤諭吉のヴィジョンの力は、格別なものではない、と小林秀雄は言つてゐます。

生活力の強い、明敏な常識を持つた人々が、その個人的な窮境を打開するのと同じやり方であり、これを福澤は、思想人として、はつきり自覺してゐたまでだ。
(第五次全集、第十二巻、370頁)

そして、この言はば当り前のやり方を見失つてゐる「今日の思想家」について、懸念を表明するのです。

さういふところに在る決斷なり無私なりが、今日の思想家氣質には、解りにくいものとなつてゐるのではないか、と私は思ふ。今日では、もはや、さういつた樂天的精神は、思想家には許されぬ、と言ふかも知れないが、これは樂天的精神といふやうなものではなく、思想家のしほとも言ふべき、無私の精神なのである。これが、解りにくゝなるとは面白くない傾向だ。本質的な意味でシニスムを缺いた無私が、通俗的な意味で樂天的と見えるやうな、そんな知的雰圍氣のなかで、私達は平氣で暮してゐるのではあるまいか、と私は疑ふ。
(第五次全集、第十二巻、370頁)

この疑ひが、そもそも小林秀雄が福澤諭吉を取り上げた動機であつたやうにも思はれます。

小林秀雄が読んだ『福澤撰集』には、傍線等で印が付けられてゐるものの、作品では言及されなかつた個所も多いのですが、最後に、その中で興味深いものを、二つだけ挙げて置きませう。

一つは、『福澤全集諸言』で、福澤が自らの「俗文主義」について述べてゐる部分です。この辺りには幾つか印が付されてゐるのですが、その一つに、以下に引く、蓮如の「御文章」を文章を書く際の手本として参考にした、と述べてゐる個所があります。小林秀雄は、文筆家として、福澤の文章修業に興味を持つたのではないでせうか。あるいは、仏教が日本語の文章の形成に果たした役割に注目してゐたのかも知れません。

又余が若年十七八歳の頃、舊藩地豐前中津に居るとき家兄が朋友と何か文章の事を断ずる其談話中に和文の假名使ひは眞宗蓮如上人の御文章おふみさまに限る、是れは名文なり云々と頻りに稱贊する余は傍より之を聞て始めて蓮如上人の文章家たることを知りたれども其御文章とは如何なる書籍にや目に觸れたることもなく唯一時長者の文談を聞流しにしたるまでのことなりしが其後數年を經て江戸に來り洋書翻譯を試るときに至りて前年の事を思出し右御文章の合本一冊を買求めて之を見れば如何にも平易なる假名交りの文章にして甚だ讀易し是れは面白しとて幾度も通覽熟讀して一時は暗記したるものもあり之が爲めに佛法の信心發起は疑はしけれども多少にても假名文章の風を學び得たるは蓮如上人の功德なる可し
(『福澤撰集』10頁)

もう一つは、『帝室論』の中で、日本文化の保存に皇室が大きな役割を果たすべきだ、と述べた部分です。小林秀雄は、皇室の在り方に強い関心を懐いてゐましたし、日本文化の例として福澤が何を列挙してゐるかにも関心を持つたのではないか、と想像されます。

太陽暦を用ひて五節句を廢し三百藩を廢して城郭を毀ち神佛混淆を禁じて寺社の風景を傷ふたるが如きは今更恢復するも難からん又今の事實の利害に於て恢復す可らざるものもあらんなれば是等は姑く不問に附して爰に我輩の特に注目する所は日本固有の技藝にして今日これを保存せんと欲すれば其事難からず之を放却すれば遂に其痕を絶つの恐あるもの即是れなり日本の技藝に書畫あり彫刻あり劒槍術、馬術、弓術、柔術、相撲、水泳、諸禮式、音樂、能樂、圍碁將棋、插花、茶の湯、薫香等其他大工左官の術、盆栽植木屋の術、料理割烹の術、蒔繪塗物の術、織物染物の術、陶器銅器の術、刀劒鍛冶の術等我輩は逐一これを記し能はずと雖ども其目甚だ多きことならん是等の諸藝術は日本固有の文明にして今日の勢既に大なる震動に逢ふて次第に衰へんとするものたれば之を其未だ滅了せざるに救ふは實に焦眉の急と云ふ可し如何となれば藝術は數學器械學化學等に異にして數と時とを以て計る可きものにあらず規則の書を以て傳ふ可きものに非ず殊に日本古來の風にして假令ひ規則に據る可きものにしても所謂人々家々の秘法に傳はる者多くして其人に存するが故に其人亡れば其藝術も共に亡ぶ可きは當然の數にして今日僅に其人を存し然かも其人は將さに自然に亡びんとするの時なればなり今この急を救ふの策果して如何す可きや之を今日の文部省に托す可らず之を托せんとするも省の資格に於て行はれ難きもの多からん況や國會政府たるの後に於てをや唯冷なる法律と規則とに依頼して道理の中に局促し以て僅に國民の外形を理する政府の官省が目下の人事に不用なる藝術を支配して特に之を保護獎勵せんとするが如き全く想像外の事にして唯此際に依頼して望むべきは帝室あるのみ帝室は政治社會の外に立て高尚なる學問の中心となり兼て又諸藝術を保存して其衰頽を救はせ給ふ可きものなり
(『福澤撰集』204~205頁)

なほ、福澤諭吉の作品は、慶應義塾大学のサイトで読むことができます。検索機能も付いてをり、とても便利です。


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