Milič Čapek "The Philosophical Impact of Contemporary Physics"
チャペック『現代物理学の哲学的影響』(1961)

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要 約

第一部では、古典物理学において、空間が三次元の一様な器として、その物理的な内容物とは独立で、物理的に不活性な、拡がりは無限で、際限なく分割できる器として、見られてゐた様を示した。その硬い構造は、ユークリッド幾何学の公理と定理により記述されてゐた。これらの特性は、論理的に独立ではなかつた。三次元といふ性質を除き、全ては二つの基本的な特質から導き出すことができた。二つとは、同一ではないが密接に関連した、その一様性とユークリッド的性質である。

上記の特徴の一つとして、直接あるいは間接に、現代物理学によつて疑問を呈されないものはなかつた。一般相対性理論に照らすと、以下の古典的な特性は放棄されなければならない。即ち、一様性、ユークリッド的性質、硬直性、因果的な不活性、および、物理的内容物の独立性であり、(無涯性は違ふが)無限性もさうかも知れない。これは、空間とその多様かつ変化する内容物との相対論的な融合の結果である。

相対性理論により影響を受けなかつた古典的空間の唯一の特性は、その連続性である。しかしながら、量子論と波動力学の影響により、微視的物理段階での空間的連続性の適用可能性について、深刻な疑問が出てきた。ホドンと呼ばれる最小の長さを導入する試みは、無限に分割可能な空間といふ概念が、微視的物理事象の、それ以上は細分化できないと見える分割不可能性を扱ふためには、適当な手段ではないといふ認識が高まつてゐる事の徴候である。

より深刻なのは、空間のまさに本質だと見られてゐた並置の関係が、客観的な物理世界での対応物を持たないと見えることである。特殊相対性理論によれば、自然には、絶対的な並置は無い。その反対を主張することは、相対論物理学が否定する絶対的な同時性を肯定することを意味するだらう。何故なら、並置された要素は、「点」と呼ばうと「事象」と呼ばうと、その本性からして、同時であること、即ち、前後関係を持たないことを、見逃してはならないからである。従つて、絶対的な同時性の排除は、絶対的な並置、即ち、絶対的なニュートン的空間の排除につながる。

この主張の十分な意味は、「相対化」といふ、より柔らかい言葉が「否定」の代りに用ゐられたことにより、いくらか曖昧にされた。我々は、「相対的」といふ形容詞を「空間」と「同時性」に付すことだけで、相対性理論の論理に忠実だと信じて、古い言葉が残された時に、その古い含意が無意識のうちに維持されたことに気付かなかつた。さうした無意識的、あるいは半意識的なニュートン力学の概念的枠組の残渣が、新しい物理理論の解釈に深刻な影響を与へてゐる事は、疑ひ無い。

我々は、相対論的な空間と時間との融合の性質の検討によつても、同じ結論に達する。古典的な自然像では、世界の歴史は、瞬間的な空間の連続的な前後関係として表現される。瞬間的な空間は、全てが、時間軸に垂直であり、それぞれが「ある瞬間の世界」を表現してゐる。それぞれの特定の瞬間では、四次元的な世界の過程から、瞬間的な三次元の断面を分離することができると考へられてゐた。全ての時点で、空間は、言はば、四次元的な世界の歴史の横断的、瞬間的な切断面だつたのである。相対論的な時空(空-時といふのが、より適切な名称であらう)では、かうした絶対的に同時な事象を内に持つやうな瞬間的な空間は、人為的、形式的な断面に過ぎず、自然の中で、何もこれには対応してゐない。さうした断面は、相対論的な空-時で用ゐ続けるならば、基準となる枠組が異なれば、異なるものとなるだらう。この差異は、日常の経験では無いに等しいものだが、宇宙的な規模や光速に近い速度の場合には、無視できない。

従つて、局地的な「今」といふ概念は、人間や地球の規模で実用的正当性を保つてゐるが、巨大な三次元の「今」といふ概念は、その物理的な意味を完全に失ふ。エディントンが強調したやうに、世界に広がる瞬間といふものは無い。あるいは、ホワイトヘッドの言葉では、「ある瞬間における自然」といふやうなものは無い。この概念の排除は、古典的、ラプラス的な世界図式への最も深刻な脅威である。

静的、瞬間的な空間が、四次元的な生成の単なる人為的な切断面だとすれば、相対性理論が空間を時間に組み込むものであり、その逆ではないのは明白である。これら二つの概念の融合は、時間の空間化よりも、空間の時間化として特徴づけるのが適当である。

これと反対の、静的な解釈が、一般向け、半一般向けの幾つかの解説だけではなく、時には、著名な物理学者や哲学者によつて書かれた、より技術的な本にも見られるのは、事実である。この解釈では、相対論的な時空が、ある種の超空間と見なされ、時間は、他の次元と根本的な差はない、単なる一つの次元となる。ミンコフスキー自身が、「四次元的生成」ではなく、「四次元世界」(vierdimensionale Welt)といふ表現を使つたといふ事実が、この誤つた解釈を促したことは確かだ。しかし、時間を、空間のもう一つの幾何学的次元として表現する傾向は、古典科学の伝統の一部であり、相対性理論における時間の空間化といふ主張は、その最後の事例に過ぎない。

さらに、かうした時間の空間化は、西洋思想の曙まで辿ることができる、別の永続的な錯覚の一形態である。生成は存在に還元でき、過程は実体に、時間は時間のないものに、事象に還元できる、といふ信念が、それだ。パルメニデスから、ブラッドリー、マクタガートまで、様々な巧妙な道具立てによつて、変化を除去し、「真の現実」の静的な性質を確立しようとした人達を列挙すれば、長くなるだらう。ジェイムズ・ジーンズ、クルト・ゲーデルのやうな、時空の静的な解釈を好む人達が、自らのこの哲学的伝統との親和性を意識してゐるのは、偶然とは言へない。この現実の静的な見方が行き着く非常に大きな認識論的困難については述べないとしても、これを相対論的物理学の事実に適用しない、より具体的な理由がある。それは、以下のとほりである。

  1. 全ての因果的作用の速度には、上限がある。どれも光速といふ限界値を決して超えられない。瞬間的作用はないので、結果は原因と同時ではあり得ない。言葉を変へれば、因果の結びつき(世界線)は、前後関係にあることを免れず、従つて、それが構成する世界に動的な性格を与へる。
  2. それぞれの瞬間で、古典的ユークリッド空間は、四次元の世界史の単なる慣例的、人為的な切断面に過ぎない。慣例的といふのは、基準となる枠組みが異なれば異なるからであり、人為的といふのは、自然の中で客観的な何物も、これに対応しないからである。従つて、広まつてゐる先入観とは逆に、同時性の相対化は、時間ではなく、空間の存在論的な地位を弱めるものである。
  3. 因果的連鎖(世界線)を構成する事象の順序は、全ての基準となる枠組みにおいて同じである。世界線の不可逆性は、位相幾何学的な不変である。世界には、絶対的な並置はないが、絶対的な前後関係がある。「世界」(誤解を招く言葉だが)は、因果的な線の織物に他ならず、因果的な線の不可逆的特性は、世界史の全体に与へられる。
  4. 相対化される前後関係の唯一の類型は、因果的に無関係な事象の見かけの前後関係である。この種の相対化の真の意味は、次のやうに述べることができるだらう。因果的に無関係な事象の結果の順序は、適当な基準となる枠組みを選べば逆にする事ができ、事象の順序自体が逆になつたといふ錯覚を生む。
  5. 空間の動態化は、一般相対性理論において、より顕著である。そこでは、空-時は変化する物理的内容物と融合してゐる。しかし、静的で受動的な器と、変化する物理的内容物との、区別の撤廃は、特殊相対論においても前兆があつた。そこでは、時空的構造と因果的構造といふ二つの言葉は、一つの同じものなのである。

時間の概念は、空間の概念との結合により影響を受けずにはゐない。しかし、その変質は、空間の概念におけるほど根本的ではない。同じ場所での事象の同時性と前後関係は、基準システムの選択に影響されない。離れた事象の同時性の相対化の意味するところは、すでに説明した。所謂「時間の延び」の姿で現れる時間間隔の計量的な相対性は、特殊相対論においては、純粋に基準によるものであり、動的な遠近法(「速度の遠近法」)による単に見かけ上の歪みである。

一般相対論では、時間の概念は、より深刻な影響を受ける。空-時と変化する多様な内容物との融合により、時間は、三つの古典的な特徴を失ふ。即ち、具体的事象からの独立、因果的な不活性、及び、均一性である。一般相対論における時間は、均一で「外部の何物にも影響を受けず一様に流れる」のではなく、不均一なものとなり、言はば、「多声音楽的」あるいは「ポリリズム的」になる。これにより、何故、重力場における時間の延びが現実のものであり、単なる基準の取り方の問題ではないことが説明される。

しかしながら、12章で指摘したやうに、この伸びは、決して遅れではない。それは、時間の系列にわづかな乱れも決してもたらすことはない。ランジュヴァンの思考実験を詳細に分析すれば、ある非ニュートン的な、非計量的な意味で、時間は普遍的なものであり続けることが分かる。何故ならば、同じ一つづきの持続が、多様な不調和な時間の諸系列の背後にあるからである。この持続は、それぞれの系列で違ふものとして考へられてゐるといふ事実はあるとしても。相対論的な宇宙では同時性の概念が排除されるが、そこでは同時間的な独立の関係が維持される。様々な計量的に不調和な諸系列は、そこでの事象は決して同瞬間のものではないが、同じ時間に属する。この同時間性の関係は、空間性の新しい意味への鍵を提供する。(私は、ニュートン的な連想に染められてゐるのが嫌だつたので、意図的に「空間」の代はりに「空間性」といふ語を用いた。)

時間の全ての古典的な特性-一様性、均一な流れ、物理的内容物の独立、因果的不活性、無限性、無限の分割可能性-は、最後の二つを除けば、どれも、相対性理論により疑問を呈されてゐる。しかし、最後の二つの特性さへも、相対論以降の物理学の発展により、脅かされてゐる。時間の始まりの不存在は、最も重要視された古典的思想のドグマの一つであつた。無限の過去が、神学的に神の無限の持続として解釈されようと(ニュートン)、自然主義的に宇宙の持続の始まりの無さとして解釈されようと(ブルーノ等)、問題ではない。しかし、このドグマでさへ、今日では、いくつかの宇宙起源の理論、特に拡張する宇宙の理論により疑問を呈されてゐる。事実、我々が何か追加的な想定によつてこの理論を修正しない限り、そこから、始まりの無い過去の否定が帰結する。(拡張と収縮の時期を想定することで、この結果を避けることは可能だが、これはまさに一つの修正想定である。)

時間の連続性(無限の分割可能性)も、空間の概念と同様の状況に直面してゐる。時空の連続性といふ概念の全体は、巨視的な段階で、さらには分子的な段階においても驚くべき成果を挙げたが、電子や量子の段階では、明らかにその適用可能性を失ふ。「クロノン」と「ホドン」の仮説が同時に現れたことは、これにより説明される。これらの仮説が短所-特に、その場しのぎ的な性格、相対論以前の時間からの空間の分離、否定しようとしてゐる点や瞬間の概念を暗黙のうちに前提としてゐること-を持つからといつて、空間と宇宙の無限な分割可能性の概念が、エルヴィン・シュレディンガーの言葉を使へば、我々が巨視的に接近できるものの「異常な外挿」であることの証拠が増えつつあることに、目を塞いではならない。

空-時とその物理的内容物との密接なつながりにより、伝統的な物質運動の概念は、いづれも変質した。それは、見分けがつかないほど変質したと言つても過言ではない。

物質概念の限界は、エーテルの機械論的モデルの度重なる失敗によつた示された。空間を満たす不可入な何かといふ、我々の伝統的な物質の概念は、巨視的な、さらには分子段階での有用性にも拘らず、かつて「不可量物」と呼ばれてゐた天体間、分子間の仮説的な媒体に適用しても無益だといふことが、次第に明らかになつた。しかし、止めの一撃は、相対性理論から来た。特殊相対論は、最も簡単な運動学上の性質も、存在すると考へられてゐたエーテルには適用できないことを示した。同時に、質量とエネルギーの融合は、中身を持つた物体とその周囲の空間との区別をあいまいにした。と言ふのは、物体の集合体の全質量は、構成微粒子の単なる算術的な合計ではなく、それらの間にあるエネルギー的な結合に含まれる質量にも依存するからである。

一般相対性理論では、「充満と空虚」の区別の否定が、さらに顕著となつた。伝統的な物質の微粒子といふ概念は、エーテルにせよ、原子にせよ、分子にせよ、この区別に基礎を置いてゐた。この区別が無くては、中身を持つた物体の概念は、その大きさ如何に係らず、明確さを失ふ。「粒子」について語る事は、それを周囲の空虚と分ける明確な境界が存在しなければ、無意味である。物質が空間、より正確には空-時、局所的な不規則性へと溶け去る時には、我々は、「空間内の物質」といふ表現を使ふ権利さへ持たない。ベルクソンやホワイトヘッドの粒子の「遍在」についての主張が誇張だとしても-それは局地的な不規則性が伝搬する速度の有限性を考慮に入れてゐない-「微粒子」とその環境とのくつきりとした境界が存在しない事を強調したのは、正しい。

相対論的な質量とエネルギーの融合の、広範で目を見張る実証は、原子論の伝統的な粒子と現代物理学の「粒子」との重要な相違を示した。相対論の速度による質量の増加は、微小な「粒子」が一定ではないことを示した。電子対の消滅と生成の事実は、それが恒久的なもの、即ち、時間と空間の中で持続するもの、でさへないことを示した。ある粒子は、忽ち消えるので、これに「粒子」といふ、硬さと永続性の理念と不可分に結びついてゐる語を用ゐることは、明らかに誤解を招く。それは、「事象」と、でなければ精々、ホワイトヘッドが提案したやうに「事象-粒子」と、呼ぶ方がずつと相応しい。

微視的物理の粒子は、シュレディーガーが強調したやうに、二度観察できないばかりではなく、ハイゼンベルクの不確定性原理を一貫して適用すれば分かるやうに、一度たりともできないのだ。微視的物理の「粒子」を、我々は一度たりとも観測できない。観測できたとすれば、自然の中に、明確な運動量と明確な位置との結合を見出す事を意味する。しかし、さうした可能性は存在しない。我々の実験や観察の技術の一時的な制約によつてできないのではなく、エディントンや最近ではフィリップ・フランクが強調したやうに、単に、位置と運動量の結合が自然の中には存在しないのだ。では、古典的な粒子の概念で何が残されてゐるのだらう。それを構成する性質たる運動量や位置が同時に存在できないのだとすれば。

かうした物質の概念の根本的な変革により、古典的な運動の概念も、深刻な影響を受ける。古典的な位置の変化といふ意味での運動は、一片の物質が、時間の中で持続し、以前に占めてゐた場所を離れて他の場所に移ることができた場合にだけ、可能なのである。しかし、もし「粒子」が単なる空-時の、より複雑な一領域だとすれば、どうやつて、言はばその本質そのものを構成するものから、自らを切り離すことができるのだらうか。中身を持つた物体がある場所から別の場所に動くのを我々が見るときに、実際に生じてゐるのは、なにか実体的な存在のある場所から別の場所への移動ではなく、ある場所での局所的な曲率の消滅と、隣接する領域での発生である。状況は、空気の入れ方が足りないボールの表面を、小さな凹みが動き回るのに似てゐる。その「移動」も、局所的な曲率の二つの付随する変化の産物である。即ち、ある場所での凹みの消滅と隣り合う領域での発生である。ここで「空間を動くもの」の同一性といふ錯覚を生んでゐるのは、我々の眼球の運動の連続性である。

かうして、我々が物体の空間における移動と呼ぶものは、実際のところ、クリフォードが1876年に予言的に述べたやうに、空間の(今日では我々は空ー時の、といふべきだが)内在的な変化であり、その曲率の変化である。空間と時間の物質と運動との関係は、受け身で不変な器と変化する内容物との関係ではなくなる。我々が空間の中の、時間の中の運動と呼んでゐたものは、今や、空-時の変化となり、この変化に空-時は無関係なのではなく、それに係つてゐる。かうして変化の範疇が、移動の範疇に取つて代はる。

移動の概念と「空間を移動する物」の同一性が、巨視的段階でも不適当なのだとすれば、これらを微視的物理の規模に適用することは、どれほど誤解のもととなるだらうか。早くも1926年に、P.W.ブリッジマンは、両概念の微視的世界への適用可能性に疑問を呈したが、今日、我々は、彼の懐疑主義が正しいものだつたことを知つてゐる。動く物体の同一性を保証するのは、運動の継続性であり、逆も正しい。と言ふのは、連続的な軌跡が「動く物」の前後する位置をつなぐ場合にのみ、その同一性を空間と時間の中で追ふことができるからだ。逆に、全ての瞬間、全ての軌跡上の点において、持続する物体の同一性が、その連続的な運動を図示する可能性を保証する。この関連した概念は、いづれも、量子的な現象には適用できない。そこでは、空-時の脈動的な性質が現れる。

そこで、我々は、物質と運動の概念が曝されてゐる革命的な変化の、第二の側面に移る。物質と運動が空ー時に吸収され、空ー時の方は、その因果的な受動性と一様性を失つたに留まらず、これらは相互に排他的ではなくなつた。古典的な思考では、物質と運動は、相互に変換できない。運動の量の変化は、決して動く物体の質量に影響せず、粒子の運動量の増加は、外部からの力学的な原因によつてのみ増加し、粒子そのものから出てくることはなかつた。相対論的な力学においては、状況が異なることを、我々は見た。質量は速度によつて変化し、運動エネルギーは「粒子」の総質量を増す。より重要なのは、「静止質量」の全てが、光子(その「静止質量」はゼロである)の運動エネルギーに変換され得ることである。かうして、もう一つの古典的な区別である、運動と物質的な担体との区別が撤廃された。

ネルンストによる「零点エネルギー」の発見は、古典科学の枠組みにおいては、非常に奇妙なものと見えたが、我々の巨視的な経験から強く示唆される運動動く物との概念的な分離が、微視的物理の段階では、その正当性を失ふことに気づけば、より理解できるものとなる。元々は、感覚的なレベルでの運動と物質の区別であつたものが、後に、より抽象的なレベルで、事象の区別、あるいは、実体過程との区別となつたのであらう。この区別の消滅は、波動力学において、より顕著である。ド・ブロイの波の発見は、物質粒子が振動により構成されてゐるだけではなく、かうした振動を微粒子やエーテル以下の存在の揺れとして解釈できる可能性が極めて低いことを示す。「粒子ではなく、事象が真の客観的な現実を構成してゐる」といふのがサー・ジェイムズ・ジーンズの結論であり、バートランド・ラッセル、アンリ・ベルクソン、A.N.ホワイトヘッド、ガストン・バシュラールといふ非常に多様な思想家たちが、これに同意してゐる。

粒子の概念の変質と運動のそれとの間には関連がある。しかし、どちらの言葉も維持された。それらが時々は引用符で囲まれることはあるとしても、引き続き使はれてゐることで、その基本的な不適切さが隠され勝ちである。同時性と瞬間的な空間のやうに、粒子や運動は、単に存在しないのだ。我々は、微視的物理事象の個別性を記述するのに、より適切な語を用ゐるべきである。物質の事象のやうな性質は、空-時の脈動的な構造のもう一つの現れである可能性が高い。

空間、時間、物質、運動といふ基本的な古典的概念の、かうした根本的な変質により、伝統的な粒子的・運動学的な自然の図式の内で、残されてゐるものは殆どない。それが基盤としてゐた図式が崩壊してゐるので、ラプラス流の古典的な決定論が危ふくなるのは、自然である。厳密な決定論と自然の粒子的・運動学的なモデルとの密接な関係は、決定論的な信念が述べられた形式そのものからも見て取れる。「ある瞬間の宇宙の状態を与へられれば」、あるいは、「世界を構成する全ての粒子の瞬間的な配置とその運動量を与へられれば」、宇宙の歴史の全ての状態が、過去であらう未来であらうと、完全に曖昧さなく決定される、といふものだ。

このラプラス的宇宙モデルを構成する概念の、一つとして、影響を被らなかつたものはない。相対性理論で無事に済んだものも、量子論や波動力学によつて疑問を呈された。相対論的に言へば、「ある瞬間の世界の状態」といふやうなものは無い。瞬間的な粒子の配置といふやうなものは無い。さらに、不変で永久的な粒子の概念は、持続性を持たない瞬間の概念と同じく、時代遅れのものである。これは、正確な運動量と正確な位置の関係も、正確なエネルギーと正確な時間の関係も、自然の中には見出せないといふ不確定性原理において、特に明瞭である。この原理は、作用の離散性の結果に過ぎないのだが、これが古典的な決定論、自然の粒子的・運動学的なモデルの双方と対立するものであることは、明らかに偶然ではない。

この原理について、二つの争ひあふ解釈があるのは事実である。最初の解釈は、より古典的な考へ方に合つたものだが、問題の不確定性は、観測の擾乱効果に因るものだとする。第二の解釈によれば、それは自然の中に客観的に存在する偶然性に因る。

最初の解釈は、基本的には、古典的な決定論に影響を及ぼさない。それは、微視的物理過程の統計学的な不確定の背後には、量子以下、電子以下の段階の微小なメカニズムがあり、個別の具体的な事象を決定してゐる、と主張する。この決定論的な解釈の長所と短所は、一連の放射性現象に適用した場合に、特に明らかとなる。「観測者の擾乱効果」は、外界からの影響とは独立して、自発的に起こる、放射能の突発を、殆ど説明できない。決定論の仮説は、従つて、核の構成要素を放出する核内の「隠されたメカニズム」を拠り所とするしかない。

この接近法は、デカルト・ケルヴィン的なモデルの明確性といふ長所を持つてをり、放射能が自発的に生じるのは、重い原子の非常に複雑な核だけである、といふ事実により、その信憑性が増す。放射性崩壊の偶然性を、単に見かけのものと見做して、それを構成する要素の運動エネルギーの表面的には無秩序な変動により説明することほど、尤もらしく見えるものはない。他方で、この明確さといふ特徴が、決定論的解釈の一番の問題点である。微小物理においては、機械論的な粒子モデルの人を欺く明確さほど、疑はしいものはない。ここで前提とされてゐるのは、核から放出された粒子があらかじめ存在してゐたといふことである。これは、ベータ電子の場合には、不可能である。粒子概念一般の不適切さが確定されてゐることは言はないとしても。我々が、放射性の放出への粒子的な言葉の適用を分析する際には、その不適切さがより明白になる。

ハイゼンベルクの不確定性原理の決定論的な解釈の、より洗練された擁護者は、多分、粒子的なモデルへの関与を否定するだらう。彼等は、自らの「隠されたパラメータの理論」は、粒子が場の連続性の中に溶けてゐる、場のユニタリー理論と類似性の高いものだと、正しく主張するかも知れない。この場は、ある非ユークリッド的な曲率あるいは捩れと同一視され、物理的現実の古典的な視覚モデルとは、遠く隔たつてゐるものだ。しかし、これによつて基本的な困難が取り除かれはしない。何故ならば、伝統的な時空の連続性の概念が維持されてゐるからである。従つて、ユニタリー場の理論も、隠されたパラメータの理論も、物質とエネルギーの粒子的な構造を説明するといふ困難な課題に直面することとなる。彼等の観点からすれば、プランクの定数 h の存在は、究極的な還元不可能な事実であると見られるのではなく、場の量子下の連続的構造の副産物として説明されるべきなのである。これが、現時点では、ユニタリー場理論、隠されたパラメータ理論、双方の主な難点だと思われる。時空の連続性の概念は、我々の限られた巨視的経験の、大胆で法外な外挿であることに留意すれば、この障害が取り除かれるだらうとは思はれない。従つて、我々は、微視的物理の不確定性が客観的性質であることの、積み重ねられた状況証拠は、圧倒的に強いものだと結論して良いだらう。

物理的不確定性といふ観念への抵抗は、主として、哲学に源を持つ。物理学での偶然主義は、「科学の破滅」や「理性の自殺」を意味すると、誤つて考へられてゐる。客観的な不確定性の受け入れをとりわけ難しくしてゐるのは、古典的決定論が、粒子的・運動学的自然観だけではなく、自然の定量的見方とも結びついてゐるといふ事実である。かうした見方では、物理的不確定性は、必然的に非合理的なものと見えざるを得ない。何故なら、それが、物質にせよ、エネルギーにせよ、衝撃にせよ、ある量の原因のない変動といふ形を取らざるを得ないからである。この理由により、エネルギー量の原因を持たない変動は、それがどんなに僅かなものであらうと、ルクレティウスのクリナメンや、あらゆる無からの創造のやうに、荒唐無稽だと見えざるを得ないのだ。

しかし、不確定性原理が、ニュートン・ラプラス型の厳密な因果関係と同様に、さうした絶対的な決定論とも相容れないことを見逃すべきではない。この原理に照らせば、鋭く定義された量の概念は、その意味を失ふからだ。原因のない変動を言ふのは、不変を言ふのと同様、無意味である。この理由から、物理的偶然性を、自然の運動学的な量的モデルで表現することは、奇妙さや矛盾を生むばかりである。

物理学における非決定論の不合理性だとされるものは、物理的実在のラプラス的モデルが、宇宙の唯一の理性的なモデルではなく、古典的決定論の不適切さが確かなものであることが、物理世界への生成の復権を意味するに過ぎないことに気付けば、消滅する。古典的決定論の図式では、新しさや生成は、事実上、排除されてゐた。未来は、現在に暗に含まれてゐると見なされた。従つて、ベルクソンの言葉を使へば、時間は、「全てを一時に知る事が出来ないといふ人間の弱さにすぎないもの」に貶められた。他方で、物理的な不確定性の客観的な性格は、物理的実在の動的な見方において、理解可能な意味を持つ。動的な宇宙においてのみ、未来は、偽りの出来上がつた現在ではなく、未来性といふ性格を維持するからである。動的な宇宙においてのみ、新しさは不合理ではなくなる。それは、生成の基本的な特徴そのものだ。未完成の宇宙においてのみ、「可能性」といふ語は、人間の無知の徴候ではなく、未来の客観的な曖昧さを指し示す。

新しさの偶然な出現は、何事でも生じ得る全く関連性を持たない事象に満ちた奇跡の宇宙と両立しないやうに、スピノザやラプラスの静的な宇宙とも両立しないのだ。逆に、過去の影響による制約は、予め決定的なものではないが、現在の事象一つ一つの還元不可能な新しさと同様に、生成の基本的な特徴なのである。微視的物理の事象に統計の法則が適用できることは、因果関係の概念を、放棄するのではなく、拡張すべき事を、明らかに示してゐる。排除すべきなのは、ただ、古びた静的な必然性の形である。

自然に於ける真の新しさを認めれば、「循環的時間」や「永劫回帰」が不可能となる。同じ状態の回帰は、ある時間の間隔に隔てられた二つの前後する瞬間が、同一であることを意味する。しかし、さうした同一性は、それによつて後の瞬間が前の瞬間から区別される、新しさの要素を、排除することは明白だ。かうして、生成は、その性質上、逆行しないのである。

この論理的な根拠のほかに、循環的時間を否定する新しい理由が、物理学によつて齎された。古典的な形の永劫回帰の教義は、今日では古びた、現実の運動学的・粒子的モデルを前提としてゐる。しかし、この教義が古典的運動学との関係から自由になつたとしても、「ある瞬間における宇宙」の概念を想定する必要があるが、これは相対性理論に照らせば、同様に時代遅れである。より深刻なのは、理論に内在する論理的な困難である。宇宙の以前の状態の完全な繰り返しといふ概念は、完全に逆行不可能な時間の枠組みの中でのみ、意味を持つ。さうした時間の中においてのみ、二つの同一だとされる宇宙の時間の状態を、その「時間的な位置」によつて区別できるからである。しかし、これは、循環的時間の理論が避けようとしてゐた前提そのもの、具体的な事象と分離できる非循環的な時間といふ前提を含むことになる。循環的時間の理論は、かうして、基本的に、自己破壊的なものである。

しかし、時間の可逆性は、時間の方向の逆転可能性といふ、より穏やかな形で、世界の歴史の同一の状態の完全な回帰を仮定しないで、主張されることもある。現在の「時間の矢」の諸理論は、循環的時間の理論と同様に、時間を関係からみる理論に基礎を置く。即ち、時間は、ルクレティウスの言葉では、「それ自体としては何物でもなく」、何らかの観測できる傾向により定義されなければならず、もし、この傾向が局所的で、逆転可能なものであれば、時間そのものも、局所的で逆転可能でなければならない、といふ理論である。時間の方向のエントロピー増大による定義は、自然に、この結論に繋がる。熱力学の第二法則の統計的な、運動学的・粒子的な解釈は、分子規模(ブラウン運動で観測される変動)での、そして結局は、巨視的な規模での、時間の方向の逆転可能性を含意するものである。

この理論の最も深刻な制約は、「方向」といふ用語の疑はしい用法に基礎を置くといふ点にある。この語は、時間には、緩やかな比喩的な意味でしか使ふことができない。我々が、「方向」といふ言葉が幾何学や運動学から借りられたものであること、従つて、文字どほりに時間に用ゐることはできないのだといふことを忘れると、「時間の動き」と空間内の動きとの誤解を招く類推から、軽率にも、全ての帰結を引き出すかも知れない。そして、我々は、空間内の運動の方向が変はり得るやうに、「時間の方向」も変はる、と考へるかも知れない。あるいは、空間内の運動が円形であるやうに、時間の道筋も円形であると。逆転可能な時間や永劫回帰の諸理論は、かうした誤つた運動学的類推に基づいてゐる。

我々が、空間化といふ妄念から、我々の想像力を解き放てば、生成の逆転可能性を自己矛盾のない言語で述べる事は不可能だと分かる。時間と空間的な運動との、人を惑はせる類推によつて、想定されてゐる時間の方向の逆転可能性が意味してゐる「過去の未来化」の本質的な不合理が、我々の目から隠されてゐるだけだ。この理由により、エントロピーの時計が逆に進むやうな空想的な世界においてさへ、時間は先へと流れるだらう。過去と未来との、即ち、取り消しが効かない形で生じたものと、潜在的な「未だない」状態との間の、非対称があるだらう。

我々が、「時間の方向」を可逆的な傾向によつて定義するといふ試みを拒否したとしても、我々が時間を関係性において捉へるどのやうな理論も拒否する、といふことではない。時間は、具体的な事象と切り離せない。しかし、これらの事象は、我々が今日知る限りでは、その配置が、少なくとも原則的には、繰り返される、不変な粒子の移動に還元することはできない。

宇宙の粒子的・運動学的モデルの古さを踏まへて、現代の物理学、特に現代の宇宙論では、基礎となる可逆的な微視的過程とされるものから、巨視的な不可逆性を導き出さうといふ無駄な試みを、放棄するといふ傾向が強くなつてゐる。ピエール・ヂュエムからエディントンまで、この傾向は次第に明確となり、ルメートルの膨張する宇宙に、その最も驚くべき表現を見るに至る。かうした理論では、空間の生成への組み込みが、古典的な一般相対性理論におけるよりも、徹底的に実現されてゐる。同時に、膨張する宇宙の理論は、時間を関係性において捉へる理論である。何故なら、時間そのものが、その不可逆な物理的内容物と溶け合つてゐるからだ。この理論は、また、実際に無限である宇宙の過去といふ、議論の多い伝統的概念を、排除するものである。

ルメートルの宇宙進化論は、唯一可能なものではない。しかし、将来の宇宙進化論が、どのやうな最終的な形を取るとしても、可逆性といふ概念が、本質的に不合理であること以外に、相対性理論と波動力学により、その粒子的・運動学的基礎を奪はれたといふ単純な理由があるので、古典的な宇宙進化論の可逆的モデルへと戻ることはない、といふのは殆ど疑ひのないところである。


20世紀の前半に起こつた物理学の革命的変化は、現実のラプラス型モデルの終焉と手短に特徴づけることが出来るかも知れない。単に、古典的なラプラス流の決定論が、今、疑問を呈されてゐるからだけではなく、ラプラスの概念的図式の全ての要素が大幅に変更されたからである。これが、我々が粒子的・運動学的図式の崩壊と呼ぶものである。この図式が暗黙裡に時間を持たないものであつたので、ラプラス流の錯覚の終焉は、物理世界への生成の再導入を意味する。

この生成の現実性の再確立の重要な哲学的含意は、既に指摘されたところであり、これが物理学の新しく発見された事実と合致することが強調された。古典的運動学の図式が、現代の物理学の理解には不十分であるといふ事実は、物理的現実の構成要素(あるいは事象)を、感覚的(視覚・触覚的)言葉で解釈するといふ全ての望みが断たれたことを意味する。人間の想像力は、物質の満足すべきモデルを構築する材料を提供するには、明らかに不十分である。

この観点で、現代の物理学の革命は、16世紀の所謂コペルニクス革命よりも広範なものである。太陽中心の宇宙は、原則的に、プトレマイオスの宇宙と同様に、想像可能なものである。しかし、今日では、物理的現象の客観的基盤が想像力の言葉では記述できないことは明白である。全ての感覚的な質は、基本的に、現象の同じ水準にあり、我々の意識的な器官と現象を超えた物理的過程との相互作用の結果である。現象を超えた水準自身は、従つて、我々の知覚によつても想像力によつても、永遠に達することができないと思はれる。それは、知覚することも、想像することも、できない。現時点では、抽象的な数学の構築物が、現象を超えた平面に達するのではなく、その構造を表現する唯一の道である。

従つて、現象を超えた水準の具体的なモデルの可能性は、永遠に排除されてゐるやうに思はれる。これは、しかしながら、今日広く受け入れられてゐるとしても、早まつた結論である。この結論の尤もらしさは、「具体的」といふ言葉の曖昧さに依存してゐる。この言葉を、我々が「視覚的」あるいは「絵で表したやうな」といふ意味に使へば、この結論は完全に正しい。しかし、「具体的」と「絵で表したやうな」は、同義語ではない。視覚以外の感覚的な質があるばかりでなく、心理学が近年になつて漸く気づいた、イメージを持たない思考の非感覚的な質がある。

メロディーの知覚の時間的な構造においては、物理的現実の視覚的・機械的なモデルでは非合理的だと見えるやうな特徴を見出すことができる。即ち、事象の優位性、無限な分割可能性の欠如、新規性と記憶の因果との両立、生成と具体的内容との融合である。この聴覚的モデルの使用が、純粋に教育的なものであることは、言ふまでもない。これは、単に、我々の心を、視覚的想像力の排他的な支配から自由にするために役立つのである。この支配の影響は、表面的には抽象的、数学的な習慣と見えるものにおいても、見出すことができる。認識論を学んだ人間であれば、誰も、聴覚や、その他の二次的な質を物理的世界において復権させようとは、夢見ないだらう。聴覚的経験の積極的な意味は、これにより、ある種のイメージを持たない動的なパターンを引き出すことができることにあり、これが、物理的現実の性質となつてゐると思はれる「広がりを持つた生成」の一類型の性質を、理解するための鍵を提供するだらう。


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