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第3章 運動の知覺

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前の章でアランは、錯覚にも理性や判断が働いてゐることを重さや遠近法、「實體鏡」の例で示したのですが、この章では運動を感じ取るときにも同様に理性が働いてゐることを説明します。

最初の段落の前から3分の1あたりに、

つゞいて、かういふ想像上の運動も、たゞ比較によつて知覺されるものだと氣づけば、こゝにもやはり理性が働いてゐると解つて來るだらう。そしていろいろな外觀を説明する爲に一つの運動といふものを考へるだらう。

といふ文があります。一つの運動を考へるのが「哲學の初心者」のやうに読めますが、原文では多分理性が主語なので、

ここにもやはり理性が働いてゐて、いろいろな外観を説明する為に一つの運動といふものを考へてゐるのだと解つて來るだらう。

とした方が、それがはつきりするでせう。

第1段落の後半の「運動とは一つの分割出來ない全體である」といふあたりは、ベルクソンの『意識の直接与件についての試論』の第2章に書かれてゐることと同じで、ゼノンの逆説の話も出てくるところを見ると、アランもベルクソンの本、とりわけ第2章の「運動は計測できるか」、「エレア派の錯覚」といふ節を念頭に置きながら書いたのかも知れません。尤も戦場ですから、実際に本を参照してゐたのではないでせうが。

『意識の…』は岩波文庫から『時間と自由』といふ題で出てゐますから、比べてご覧になるとおもしろいと思ひます。アランが駆け足で述べてゐるところを、丁寧に説いてあります。小向さんが言つてをられたやうに、アランは長く書くのは好きではなく、むしろ気の利いた短い言葉を吐くのを好んだやうで、ここでも

僕等が知覺のうちに捕へるものは、運動する事實ではない、運動しないその考へであり、その考へによる運動だ。

などと言つてゐます。

この言葉も、もう少し気を使つて訳して欲しかつたなと感じるものの一つで、

私達が知覚の中で捉へるのは運動といふ事実ではなく、実際はそれについての動かない観念(idée immobile)であり、この観念に基づき運動を捉へるのだ。

とでもすれば、分かり易いと思ひます。

ここで私がアランらしいなと感じるのは観念に「動かない」といふ形容詞をつけてゐるところです。これがなくても意味は通じるし、むしろ分かり易いのかもしれませんが、それで観念といふものの性質を強調できるし、文章としても運動との対比がおもしろいと思つたのでせう。

第1段落の最後には、「人々が運動のいろいろの形を考へ、勝手に樂しんでゐるあの錯覺」として二つの例が挙げられますが、少し分かりにくいかもしれません。その最初の例の栓抜きは、螺旋状の金属部分がついたワインのコルク抜きで、回すと金属部分に軸方向の動きが感じられるのです。風車や風力計の例は、前から見ると右回りでも、後ろから見ると想像すれば左回転だと感じられるといふのです。

小林訳では風車が水車となつてゐて、原文は moulin à vent ですから間違ひなく風車なので、風が並ぶのは美しくないと思つたのか、あるいは水車の方が、例へば小川の水車で向かう岸から見るのとこちらからとで回転の向きが逆なのが思ひ描き易いと考へたのかも知れません。

最後の段落に

筋肉の感覺について世に行はれてゐる議論が、哲學上の認識に無縁なものだと、やがて諸君にもはつきりして來るだらう。

とありますが、この筋肉の感覚の議論が具体的にどのやうなものを指すのかは、勉強不足で分かりません。現在の生理学では筋肉から得られる感覚といふものも認めてゐるのではないかといふ気がしますが、アランがこの例で強調したいのは、運動はそれとして与へられるものではなく、従つて筋肉で運動を感じるわけではなく、あくまで私達が再構成してゐるものだといふことでせう。


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