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第2章 錯覺

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この章でアランは、錯覚にも理性や判断が働いてゐることを重さや遠近法、「實體鏡」(脚注 1)の例で示し、「感覺による認識には何か學問めいたものがある」ことに気付かせ、後で「すべての學問は物の最も正確な知覺に存する」ことが分かると予告してゐます。

第1段落の1行目、小林訳で「明白な判斷」とあるのは expliciteです。自らそれと知つた上で行つてゐる判断で、誤つてゐると分かれば直す。理性が目覚めてゐる場合です。他方、錯覚では「判斷が表に顏を出さない」。impliciteです。

6行目からの

先づ大概の錯覺には理性が働いてゐる事が認められる、或る種の錯覺には理性が働いてゐるだらうと推測される、そして僕等に物の形を作りだしてくれるものは結局判斷といふものだ

とありますが、細かいことを言へば、「或る種の」ではなく<その他の>です。また、認められたり推測されたりするのは、理性の働きだけではなく、判断もその対象です。直訳すれば

悟性の働きやさらには私達に物の形で現れる判断を、大抵の錯覚の中に認め、その他の錯覚の中に探り出すことができれば

となるでせう。

第2段落の重さの錯覚の話は誰でも経験があるので分かり易い。第3段落の遠近法の話で、後ろから4行目に

この統一協同が形式だ。

といふ文があります。原文では Cette unité est de forme.とあり普通に訳せば

これが一つなのは形式上のことだ。

となるところで、前のほうにある、考へとして見た物の知覚は分割できないといふ部分を受けた言葉です。「統一協同」といふ語は、戦前の労働運動を思はせます。私達は小林秀雄と共に1936年にゐるわけで、それがどんな年であつたかは、やりみずさんが詳しく書いてをられました。(メッセージNo.367)

第4段落では、引用されてゐるアナクサゴラスの言葉が印象的です。曰く

「すべては一體であつた。理性といふものがやつて來てすべてに秩序を與へた」

甚だしく脱線しますが、このアナクサゴラスの言葉は、古事記の序の冒頭

それ、混元既にりて、氣象未だあらはれず。名も無くわざも無し。誰かその形を知らむ。

といふ部分を想ひ起こさせます。(岩波文庫13ページ)

最終段落の最後3行で、小林訳では、「話を論戰にもつて行かない樣にやらなければならない」と、原文の pour que を目的として訳してありますが、結果としても解せるはずで、その方が分かり易いと思ひます。例へば、こんな風です。

難しい仕事なので、これに関する議論好きの演説は無視して良い。いつも少し的外れだし、戦ひはいつもさうだが、訓練の足らない者には、危つかしいので。

脚注
  1. 「実体鏡」は、今の言葉では立体鏡とかステレオスコープで、これを使つて角度を変へて描いた二つの絵を見ると、一つの立体的な絵が見えるものです。

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