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第5章 刺激

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この章は二つの長い段落から成り、それぞれに「知覺と刺激とを區別する」道が示されます。ここで知覚と訳されてゐる言葉はperception、題名となつてゐる刺激は sensation です。

前半では、知覚されるものには予想が含まれてゐるが、

そこにはいつも何かしら實際に與へられた物がある。僕が推論し、判定し、豫想する土臺となる何か或る物がある。

ことが指摘され、「この最初に與へられた物、これ無くては何物も知覺出來ないもの」が刺激と呼ばれます。

その上で、二つの注意がなされますが、最初の注意は「科学的思考」に染まつた現代人には納得しにくいのではないでせうか。それは

生理學者等の道に踏み迷つて、物によつて感覺器官や腦髓のなかに生じた生理上の運動を、刺激と理解しようとしてはならぬ。

といふもので、かうしたことで示されるのは刺激ではなく、「或る組織された知覺」で、「それも大部分想像から組織された知覺」に過ぎないとアランは言ひます。

「組織された」と訳されたのは composer といふ動詞の過去分詞を形容詞に使つたもので「組み立てられた」とも訳せるでせう。生理学者達が「人體の構造や外部からの作用に對する反作用を考へる」ために作り出したもので、私が感じてゐる刺激ではないと言ひたいのだと思ひます。

本当の刺激に辿りつくには、逆に

自分の持つてゐる知覺を考へてみて、學んだものや斷定したものを取除いて、殘る與へられたものは何かといふ事を決定しようと努力しなければならない。

ただ、

何等の豫想も伴はない刺激とは何か、これを知る事はなかなか難かしい。

これが第二の注意です。

後半では、「質といふものと量といふものとを考へてこの兩者の性質を明らかに」することで知覚と刺激とを区別しようとします。「「純粹理性批判」のなかでも、この問題を扱つたところは、讀者をてこずらす」さうですから、哲学の専門家ではない私の手には余るところです。この問題が『純粋理性批判』のどこでどのやうに扱はれてゐるのか、ご存知の方に教へて頂きたいと思つてゐます。


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