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第5章 感覚の刺激について

注釈へ

距離と、距離を前提とする位置の関係について感じられること全ては、起伏、形、大きさのやうに、いつでも、単に可能な運動の効果である。この点についてじつくり考へてみることが大切だ。といふのは、全ての物の形でありながら、全く物ではないといふ幾何学者達の空間の持つ逆説的な性格はここから来るからだ。例へば、私が起伏として感じるものは、実際の起伏ではない。つまり、その瞬間に触れて感じられるものではない、といふ意味だ。それは私が知っている印(signe)で、それにより私は手を差し伸べれば感じるであらうものを予測する。これは全ての距離について正しい。距離は予測でしかないのだ。この点は後で述べよう。

今は、貴君の頭に浮かんだかもしれない考へを追ひかけて見たい。全てが予測だといふ訳ではなからうといふ考へだ。これらの印は、それ自体として、実際確かに与へられてゐる。事実だと言つて誤りではない。より近づいて見ると、それは私の眼の、私の耳の、私の手の事実なのだ。私は耳鳴りを間違つて解釈するかもしれないが、それを感じてゐることに変はりはない。静脈を流れる血液に原因があるとしても、それを感じることには変はりがない。そして、この影が私の眼の疲れによるものでしかないとしても、私がそれを感じてゐることは事実だ。私が強い光の後で偽の色を感じたり、暗い夜に長すぎた読書の後で、変化するぼんやりとした形を見るのが事実であると同様に。思ひこみにより、指にかかる圧力を誤つて解釈するかもしれないが、それを感じることに変はりはない。そして熱があるのでぶどう酒を苦く感じる。しかし、私がその苦味を感じてゐるのは事実だ。常に何かが実際に与へられねばらならず、それについて私は理屈をつけ(筋目を立て)(raisonne)、見ぬき、予測(先取り)する。運動は、見かけのものでも実際のものでも、色や光の何らかの変化なしでは感じることができないだらう。これほど簡単で、たやすく受け入れられることはない。私が物に気付くのは、私の身体に対するその物理的な働きによつて感じるところによるのだ。そして、この最初に与へられるもの、それなくしては何にも気付かないのだが、これが感覚の刺激(sensation)と呼ばれる。

さう言つたところで、二つの大事な注意をする。先づ、ここで生理学者達の道に迷ひ込み、感覚を物によつて感覚器官や脳に生じる物理的動きと解してはならない。さう言ふと、複合された、大部分は想像の産物である知覚を記述することになる。生理学者は、これにより、人体の構造や外からの働きへの反応を思ひ描く。このかなり荒つぽいのだが、非常に一般的な誤解をよく考へて見たまへ。私は、私の持つある知覚を検討し、学んだものや結論として得られたものを取り除いて、単に示されたものを見定めなくてはならない。

そこで二つ目の注意になるが、なんらの予測も含まない感覚といふものを知るのは、それほど容易ではない。何故なら、視覚については、与へられるのは並置された色の斑点だと言へようが、それが既に単純化された知覚であり、私はそこで全ての色々を起伏のない絵にして、私の眼から幾許かの距離に置いてゐるのだと、気付かない者がゐるだらうか。色彩の純粋な感覚は、必ずや何かもつと単純なもので、私のからだのどこそこに感じられるといふものではないだらう。さう感じるのは、既に知覚であり、つまり、形、大きさ、状況を知ることだから。従つて、純粋な感覚を掴むためには、言つてみれば考へずに考へることが必要にならう。言ひ表すことのできない一種の夢、夢うつつ、目覚めたばかりの状態が、これに近く、視覚を得た盲人の初めての印象もさうだ。しかし、まさしく彼はどう言ふべきか知らない。私達が子供の頃の最初の印象を保持してゐないのと同様、彼はそれを覚えてもゐない。

これらの注意は、私達の感覚が、最も明確で輪郭のはつきりとした事実のやうに、続いて起こり、区別が出来、連鎖となり、思ひ起こされると見る粗野な物の見方を避けるためだ。一つの事実とは、この最初の衝撃、客体と主体との最初の出会ひとは別物だと、後で述べねばならない。その際、中身と形を区別しなければならないだらう。既に、最も単純な知覚が我々に注意を促してゐるやうに。

知覚と感覚を区別するには、もう一つのずつときつくて、ほとんど辿られてゐない道がある。そこでは、質と量とを検討し、両者をその性質によつて定義しなければならない。一番難しい思索に投げ込まれる。「純粋理性批判」で読者が一番苦しむ部分の一つだ。ここで、大きさとは何か、質とは何かの正確な記述を試みよう。例へば線を引いたり数へたりするときのやうに、量が大きくなる時には、量の各部分は足し合されるが、別々のものであり続ける。例へば光がどんどん強くなる時のやうに、質が増す時には、明るさに付け加はるものは、そこで一体となり区別できない。光は変化してをり、私がより強い光と呼ぶものは、実は別の光である、と言ふこともできよう。より深い青は実は別の青である、より強い圧力は別の圧力である、等々。しかしながら、私には、光が最も弱い印象を与へるものから眩い輝きまで、強さだけが変はることで増して行くと受け取る傾きがあり、(あらが)ひ難い。この時間の中だけで増えたり減つたりする大きさが、強さと呼ばれるものである。

しかし、 それは純粋な質ではなく、我々は本来の大きさの力を借りて、バラバラに置かれた強さを我々の見方から並べ直すのだと思はれる。純粋な感覚には、増加も減少も本来の大きさもあり得ず、ただ変化と新しさがある。言ひ表せないものだ。ただ、表現を細かにすることでこれに近づくことは許されるだらうし、多くの者が、最初の印象や直接に与へられるものを、幾何学以前の姿で書き表すことにより、それを試みた。が、ここではかうした巧みな探求といふものを見定め、言葉で完全に表すことは決して出来ないと予測しておけば十分だ。記憶を特別に研究すれば、多分、最初の経験、最初の印象を捜し求めることが無駄だと、よりうまく説明できるだらう。かうした試みの中には、まさに最も恐れを知らない知覚、解釈するところの最も多い知覚が潜んでゐるやうだ。


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