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第6章 空間について

注釈へ

読者は、多分、表現(représentation示し直しの意)といふ美しい言葉の意味を十分に掴み始めたのではなからうか。多くの良い哲学者がこれを上手に使つてゐる。物は我々に示されるのではない。我々が自らにそれを示すのだ。よりうまく言へば、自らに示し直すのだ。それをどれほど単純なものと捉へるとしても、我々の知覚には、常に思ひ出、再構成(組み立て直し)、経験の要約がある。ただ、語られた判断(既に科学だ)といふものと、直感といふものとを区別することは有用だ。直感的なものは論理的なものと向かひ合ふ。ちやうど直接的な知識が、少なくとも見かけの上では、我々が研究し、想起し、推論して形作る知識と向かひ合ふやうに。ところで、我々の知覚は、常に議論、引き比べ、予測によつて補はれてゐる。例へば、私があの木々の線は一つの道の印であり、あの三角形の影は鐘楼の先だと自らに言ひ、或いは、あの手の音はあの種の自動車だと言ふやうに。かうした知識は、言葉の雑な意味で、直感的だと思はれるかもしれない。しかし、この章で姿を浮かび上がらせようとしてゐるのは、まさしく言葉の厳密な意味での直感的な知識だ。つまり、知識を、極めて正確なものでも、我々に物のように触れる性質の表現に変換するものだ。

私にはあの地平線が遠く見える。厳密に、私の眼が伝へるところに従つて言ふと、それは他のものと同様に、その色によつて存在してをり、遠いものではないとも言へよう。しかし、この遠さは私に物のやうに触れる。それは物の真実でさへある。この青つぽい色から私が引出せるものだ。この距離は私にはつきりと見え、その他全てを浮かび上がらせ、大きさ、形、色に意味を与へさへするが、しかし、それは物ではない。このことに良く注意しよう。この距離は地平線の性質の一つではない。さうではなく、物とその他の物や私との関係だ。もし私が、この距離を、辿(たど)ることによつて知らうとすれば、それを消してしまふ。ある意味では、示し直してではあるが、私はそれを経験するだらう。しかし、私が今それを見てゐる、今感じてゐると思ふ、今考へてゐる、そのままのものについては、私はそれを知つてをり、それについて可能な全ての経験を持つてゐる。それは、これが私由来で、物から出たものではないからだ。私がそれを()ゑ(pose)、辿り、決める。正しからうと誤りであらうと、遠さであることに変はりはなく、分かつことのできない関係であつて、実際に辿られたのではない。部分を足し合はされたのでもない。一体として据ゑられたもので、その後から分けられ、辿られるのだ。分割や道筋に前もつて意味を与へるのだ。

方向では同じ性質がより明確に出る。なぜなら、方向により、物は私の体の回転との関係によつて整理されるのだが、それは物なのではない。決め、型であり、定義され、あるいは据ゑられるので、受け入れられるのではない。空間に関する逆説の全てはここに集まつてゐる。著者が考へついたものであるかのやうに、素通りされることの多い難しい問題もここにある。距離と方向は、幾何学者の二つの武器だ。彼らがそれを知悉してゐるのは、物の助けを何も借りないといふわけではないが、黒地に白く任意に取つたもの、点、線や角度によつてであることに、我々は驚かないだらう。しかし、先走るのは止さう。

私は隔たりの中から、深さと呼ばれるものを選んだ。何故なら、そこにあるのではなく据ゑられる、経験を決めるといふ空間の性質が見えやすいからだ。今度は我々の前に広がつてゐる他の種の距離、あるいは目に見えない距離、盲人にとつての距離で、なすべき努力を決めるものについて考へよう。これらも距離である、つまり深さと同種の、分かつことの出来ない関係なのだと気付くだらう。また、この揺らめく色を表面と取り違へてはいけない。君が平面に広げてみようとするこの景色は、それ自体で平面を描くと思つてゐるだらうか。つまり、この豊かだつたり貧しかつたり、眼に楽しかつたり悲しかつたりする色のことだ。この錯覚に落ちないやう、この平面は君とそれとを隔てる深さがなければ意味を持たないといふことだけ指摘しておかう。さらに、例へば沼や丘の斜面のやうに、斜めに見える表面では、君が頭の中でたて直し、それぞれの物に意味と場所とを与へ、見掛けの中の真実を考へ、この厳密な形の中で見かけを理解するのだが、この事情はもつとはつきりする。体積については、常に見ぬかれ、据ゑられ、考へられるものだ。なぜなら、その中に入ることはできず、分割して別の表面や別の体積を見つけたり、見ぬいたりするしかないのだから。

立方体に戻らう。多分、教へられるところが多いだらう。誰でも立方体は定義により同じ辺、同じ角、同じ平面を持つと知つてゐる。だが、立方体は誰にもさうは見えない。さういふ風には触れない。この立方体の形を思ひ描くといふのは、経験の中で、見ることも触れることも出来ないこの形を持ち続け、確かめることだ。さらに良いのは、全ての見え方、遠近、そして影までを、他の位置、方向、距離によつて説明することで、そこには既に科学が姿を見せてゐる。ともかくこの立方体の様々な姿を素描し、同じ形を再認識することに眼を見張るがよい。もっと良いのは、かうだ。全ての辺が見える立方体を描く。鉄の棒で出来てゐるかのやうに。それを二つの姿で考へるやうに練習する。ある時は一方向の上側から、あるときは逆方向の下側から。目に映るものが、命ずるままに形と方向をとることが分かるだらう。反省(省察)を正しく導いて二度と迷はせない、これ以上の哲学的経験はないのではなからうか。

纏めとしてかう言つておかう。我々は空間の中に物を感じ取る、しかし空間は感覚(sens)の対象(objet)ではない。感覚の対象物は空間によつて初めて秩序を持ち、区別され、感じられるのではあるが。また、空間は連続だ、つまり分割不可能だ。それ自体としては大きさも形もない。要するに石ころが在るのとは全く異なる。既にここから、空間は有限か無限か、といつたやうな質問は全く意味を持たないことが分かるだらう。だが、この点については、また話す機会があらう。この険しい道では、君の力に頼りたまへ。哲学するといふことが少し分かつたらう。この種の研究で喜びが得られなかつたら、神のお告げだ。この本は手放したまへ。


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