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第7章 感覚と悟性

注釈へ

しかし、少しは先も見なければならない。知覚について調べるのはかなり簡単で対象も幅広いが、直ちに本当に難しいところに進むのでなければ、遊びに過ぎない。ここは強調しておきたい。知られてゐるやうに、カントはその「批判」の中で、空間を悟性の作り上げたものではなく、感性の型として考へようとした。これまでの分析では、私はむしろこの感じられる空間を、透明な枠に嵌めるものと思ひ描くことを避けて、言葉の厳密な意味での科学の関係で置き換へる方に導かれた。基礎的な論述ではこの差はあまり重要ではない。カントは空間を彼のやり方で論じた時、空間が型であることを決して忘れなかつた。初心者にとつて大事なのは、これだ。そこで彼が、空間は感性の型だと付け加へる時、強調してゐるのは、空間の持つ性質の全てを、科学が織り成す知性的な諸関係(これが明確な知識の型なのだが)に帰着させることはできないといふ点だ。この点については、アムランを読みたまへ。道理にかなつた述べ方をしてゐる。

問題を見えにくくするのは、数学者達が好んで、三つの目盛で常に一つの点が決る三次元の空間は、我々の経験の上での事実で、真実の必然性とは無関係だ、と言ふことだ。この問題を除けば、私の描いたやうな空間が、精神の働きのなかで型と正しく呼ばれるものと異なるものとは見えない。数学者達は代数によつて思ひ違いしてゐるのかも知れないし、三つの次元では、距離や方向といふ捉へ方ほどには、経験から与へられるものが拭ひ去られてゐないのかも知れない。しかし、細かい点に入るのは止さう。読者の眼を開きたいのであつて、苦しめようといふのではないのだ。自分の弱さではなく強さに気付いてほしいのだ。

何よりも人の知識をあるがままに説くやうに努めるなかで、私は、物を遠く或いは近く見せる幾何学的な形の予測と、正しい意味での科学の様々な形との間に既に現れてゐる、驚くべき類似性を強調した。これは注意点に過ぎないが、私は目的を忘れたのではない。体系的な学説に辿(たど)りつけなくても諦めてゐる。人々の間の議論が結論に達しなくても、役に立つ形で意見や行ひを見張ることはできる。

感覚の刺激の科学といふものが存在しないことは、重要な哲学者達、とりわけプラトンとデカルトが、しつかりと示したところだ。我々には、この良く知られた公式の意味を正確に理解する準備が出来てゐると思ふ。人が強さを測る時、いつも長さに引き移してゐることは明らかだ。例へば、二つの同じ強さの音とは、同じ距離で膜に同じ揺れを与へる音のことだ。二つの温度は、都合よく配置された同量の水銀の膨張によって比較される。熱量は水に変はる氷の重さで数へられ、重さ自身は天秤のつりあひで測られる。このやうに、科学は感覚に与へられるものを我々が述べた幾何学的な要素に置き替へる。強さについて知り得ることの全ては、詰まるところ、長さの測定になる。だが、これは科学の一つの事実でしかなく、直接に分析して明らかにすべきものだ。

知覚は、まさに我々の動きとその効果についての予測だ。多分目的はある感覚を得たり、遠ざけたりを、いつでも、あたかも木の実を拾ひ、石が当たるのを避けるのと同じやうにすることだ。よく知覚するとは、これらの目的に達するためにはどんな動きをすれば良いかを予め知ることだ。よく感じ取る人は、あらかじめ為すべきことを知つてゐる。狩人は、自分の犬達の音でその姿を見つけ出せれば、よく感じ取つてゐるのだし、飛び立つ鷓鴣(しゃこ)を仕留めれば、よく感じ取つてゐるのだ。月を手で掴まうとする子供は感じ取り方が(つたな)い、等々。従つて、知覚で正しく、疑はしく、あるいは誤つてゐるのは、この値踏みのしかたなのだ。遠近法や凹凸で特に感じられるが、聴覚や嗅覚にもあるし、盲人が(まさぐ)るときのやうに訓練された触覚でも、多分さうだらう。感覚自体は、疑はしくも誤りでもなく、従つて正しくもない。人がそれを感じる時には、つねに現実のものだ。

だから、幽霊の知覚で誤つてゐるのは、我々の眼が感じさせるもの、ぼんやりとした明かりや色の広がりではなく、我々の予測だ。幽霊を見るとは、視覚の印象から、手を伸ばすと何か動くものに触れるだらうと思ふことだ。あるいは、いま窓の前に見えるものが、私がある動きをすれば、戸棚の前に見えるだらうと思ふことだ。だが、実際に感じてゐるものを私が感じてゐることには、何の疑いも無い。これについての科学はない、これについての誤りといふものが無いのだから。私が感じるところについての研究は、全て、それが意味するところ、それが私の動きによりどう変はるかを知ることにある。ここから、客体といふのは、本質的に位置と形を持つものだと分かる。もつとうまく言へば、客体の中にある正しさとは、その形や位置、その他の全ての性質を決める空間的な関係の総体である、と分かる。ここで次のことを考へて見たまへ。天文学者がやつてゐるのは、かうした関係からその対象物を決めるといふことに他ならず、計測された知覚を重ねた後で、太陽の周りを回るのは地球だとか、それと似たやうなことを告げるところまで行く。これらの運動から、例へば食がどこで見られるといふやうに、何が起こるかを予言するところまで行く。今のところは、ここに注意すれば十分だ。


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