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第4章 感覚の教育

注釈へ


生まれつきの白内障が直つた盲人の観察で、哲学者は、最も偉大な者達がいつでも見抜いてゐた点に、関心を寄せた。それは、人は見ることを学ぶ、つまり、光、影、色により与へられる見かけを解釈するのだといふことだ。確かに、この種の医学的な観察を知るのは、いつも良い事だ。しかし、より哲学の方法に適つてゐるのは、我々の視覚自体を分析し、そこで我々に示されたものと、我々が見ぬく(deviner)ものとを区別することだ。あの地平の森は、視覚により我々に遠いものとして示されるのではなく、空気の層の介在により、青みがかつたものとして示されることは、かなり明白だらう。ただ、我々は、その意味するところを全て知つてゐるのだ。同様に、我々は遠近を解釈できる。これは柱、窓、並木のやうに同じ大きさのものが我々から違ふ距離にあり、そのため遠いほど小さく見える場合に、特に教へられるところが多い。これらに気付くのは、そちら側に注意を向けられれば、簡単な事だ。

しかし、時々、未熟な悟性(entendement)は、自分が正しいと思つてゐるものを持ち出して、人がどう見えるかを説明するのに立ち向かふ。例へば、しつかり観察しなかつた人は、むかうの木々はこちらのと同じ緑色で、ただ遠いだけだと主張することが十分あり得る。他の人は、デッサンを試みて、人が、見かけで、傘よりも小さいのを嫌がる。私は、我々の目が我々に一つ一つの物の姿を二つづつ示すことを認めようとしない人を知つてゐた。しかし、鉛筆など、十分に近い物を見つめるだけで、遠くのものは二重に見える。だが、未熟な悟性は、次ぎのやうなかなり強い理屈で、この見かけを否定するのだ。「それはないものだ。だから、私は見ることが出来ない」と。逆に画家は、その仕事柄、物の真実にはもはや注意を払はず、ただ、見かけそのままを、複製しようと努める。

動いてゐる物の方が、哲学者に教へるところが多い。ここでは見かけの力が強くて、人は、物の真実を見ることが出来ず、ただ、さう思ひ定める(affirme)のだ。高速で運ばれる旅人は誰でも、ないと分かつてゐるものを、見ずには済ませられない。例へば、木々や柱が走り、景色全体が、地平線の方に軸を持つ円盤のやうに回る。最高の天文学者でも星が空を移動するのを見る。実は大地が両極を軸に回るのだ、とはよく承知してゐるのだが。これらのことを考へると、見かけから観察と思考によつて物の真実を再構成することを学ばなければならないこと、そして、ここでは手が眼の教師であることが、明らかになる。耳も学ばなければならず、我々は音から鳴る物の方向や距離、つまり、それを見、それに触れるためにどう動かねばならないかを推し量ることを少しづつと学ぶのだといふことは、より明白だらう。狩人、射撃手は分類された観察と手立てを整へた(方法に従った)(méthodique)経験により、この教育を続ける。これに倣つて、失敗しながらも見えるものを掴まうとし、聞こえるものを見ようと努める子供の仕事の何たるかが分かる。

一番難しいのは、多分、触覚自身が、他の感覚の教育者でありながら、学ばねばならないものだと気付くことだらう。知られてゐるやうに、視力を失つた人は以前には気も止めなかつた触覚の刺激(impression)の多くを解釈することを学ぶ。例へば、友人の手に触れて、我々が普通表情から読み取る数多くのことを探り当てる。ここから出発して、遡り、柔らかいと堅い、滑らかとざらざら、さらには物の味はひ、臭ひ、色に関して結論できる全てについての子供の経験を思ひ描くことができよう。また、これらの知識のなかで、我々自身の身体についての知識は注意して検討する必要があるのも明らかだらう。

それが直接的なものでないのは、場所や距離といふ考へ方(notion)から導かれる。これには関係が含まれており、従つて直接的な印象によつては与へられないから。かうして、私達の身体や物についての知識では、全てが与へられると思はれるのだが、実際には全て学ばれたものだ。その詳細や順序について探る練習は有益だが、真実と思はれる以上のものを得ようと意固地になることのない様に。さもないと、真の哲学とは無縁の、細かな切りのない議論に落ちこむ。


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