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第2章 會話

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ここでアランは、会話によつて人は真実に近づくことができるのかといふ問を投げ掛けてゐます。一般的に言えば、言葉を軽く見がちな日本に比べて、欧米では議論によつて真実に至るという考へ方が強いのですが、アランの主張はさう単純ではありません。

まづ、気楽な会話での言葉の働きが調べられます。そこでは、めいめいの考への交換が「既知の諸公式に依つて行はれる」。つまり、紋切り型の挨拶で満足してゐると言ふのですが、そこにアランは「樣々な記號を確かめてみる事に、充分幸福を感じてゐた古代の人々の儀式の名殘りを見」てゐます。皆が同じ言葉を話し、それで通じあへる、「社會の實際の樂しみといふものはさうしたものだ。」

では、議論はどうか。

論戰に勝つ事によつて、何等かの眞理が樹立された例は嘗て無かつた、そんなことがあつたと信ずるのは子供だけである。
物の形なしで、たゞ言語に頼つて議論をする樣な場合は、筋を立てて言へない出鱈目もないとともに、異議の立たない道理といふものもない事になる。何故かと言ふと、元來言葉は眞實によつて縛られてゐるものではなく、言語の起源を考へてみれば容易に解る樣に、元來がその意味から遠く逃れて人を感動させる力を持つたものだからだ。

(ここの「感動させる」 émouvoir といふ言葉は、肯定的な意味で使はれてゐるのではないと思ひます。)

この文だけを読むと、アランが議論には否定的であると見えます。さらに

だからと言つて、會話はいつもお喋りや逆上のぼせ屋や法螺吹ほらふき達の獨檀場といふわけには行かない。

と言ひながらも、議論では正確な質問を投げることで、この言葉の魔術を妨げようとするのだが、「さういふ質問が又、自分にとつても相手にとつても陥穽に滿ちてゐる」といふわけで、

この點、重大な問題は輕々に口にしてはならぬと敎へるカトリックの叡智は立派なのだ。

といふところまで行くのです。

「ギリシャの諸賢特にプラトンは未だ説得論破の術を探究してゐた」のだが、

プラトンを讀む爲には、議論などを遥か眼下に見下す態度が本當は必要なのである。
それにしても、嘘と矛盾 するものは必然的に本當だ、從つて、論破する事で證明が出來る、さういふいかにもうまい考へに準じて、長い間何と多くの議論をいたづらに費しただらう。

かうした議論を宇宙は嗤つてゐる。

宇宙が嗤はないのは、「僕等が使つてゐる角とか相等しい三角形とか相似の三角形とか或は圓なり楕圓なり抛物線なり」だ。

さういふ物は皆論理によつて段々ときたへ上げられたものだ、いづれ最初は言葉によつてこれ以外ではあり得ないと定められた物だが、やがて思索人があらゆる可能な異議を自ら立ててみて、いよいよ動かす事の出來ぬ結論として拵へたものだ。

「代數學の最も抽象的な言語が、いよいよ自然の秘密に、少くとも天文學や力學や物理學の秘密に、近付く樣に見え」ることは、謎のやうだが、

この書物の目的は、この種の困難を一擧に解決する處にある、即ち純粹な論理學とはどういふものか、修辭學とはどういふものでなければならぬか、又何故數學がこれらを抜いたものかを説明したいのである。

この章を読んでゐると、『Xへの手紙』の一節が思ひ出されます。

「2+2=4とは清潔な抽象である。これを抽象と形容するのも愚かしい程最も清潔な抽象である。この清潔な抽象の上に組立てられた建設であればこそ、科學といふものは、飽くまで實證を目指す事が出來るのだし、又事實實證的なのである。この抽象世界に別離するあらゆる人間の思想は非實證的だ、すべて多少とも不潔な抽象の上に築かれた世界だからだ。だから人間世界では、どんなに正確な論理的表現も、嚴密に言へば畢竟文體の問題に過ぎない、修辭學の問題に過ぎないのだ。簡單な言葉で言へば、科學を除いてすべての人間の思想は文學に過ぎぬ。

比べて見ると、アランの話の進め方の方が、より慎重で、議論も細かいといふ印象を持ちますが、大筋の主張は、よく似てゐます。


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