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第1章 言語

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この章から始まる第3部の題名は「推理による認識」ですが、「推理による」といふ言葉の原語は discursive で、辞書に拠れば、一つの命題から一連の理性の働き(推理)により他の命題を導くといふ意味を持ち、直観的 intuitive に対する言葉です。本章の最後にもこの言葉が出てきて、「辯證法」的 dialectique に対して「論證的」と訳されてゐます。

冒頭に

認識がたゞ議論の力によつて、どういふ具合に擴大し強固なものとなるかをしらべてみる前に、言語といふものを取扱ふ必要がある。

とありますが、この「議論」は discours で、その形容詞が discursif ですから、<議論による>とか、<語ることを通じた>といふ風に訳すこともできるでせう。

これから後の諸章で、アランは「抽象的發明とか幻想とか情熱とか制度といふもの」について述べるのですが、それらのものに於いて「言語は王者の位置を占めてゐる。」この「音樂の深處から代數學の頂上までも及ぶ」言語といふ美しい国について述べるのが、この章です。

アランは、この章でいくつかの興味深い指摘をしてゐます。今さら言はれるまでもない、と思はれる方もをられるでせうが、私には新鮮なものでした。

例へば、人は「叩くとか與へるとか取るとか逃げる」といふ人間の行為に一番興味を持つ。といふのは小さな子供にはこれらの行為があらゆる幸不幸の由来するところだからであるが、さうした行為の意味を知るとは、その結果を身をもつて知るといふことだ。かうした行為の最初の動きは、それだけで次に何が起こるか予想できる。それが「拳を擧げるとか手を差延べるとか肩をすぼめるとかいふ」人の身振りといふ記号の源である。

この部分で、小林訳では éprouver といふ言葉が「試驗する」となつてゐますが、ここでは<体験する>といふ意味の方が近いでせう。

別の例を挙げると、「言語に於いて聲が非常な勢力を持つてゐる」のは、ダーウィンが指摘したやうに声は夜でも聞こえるといふだけではなく、叫べば人の注意を引けるが、身振りは人が見てゐることが前提だからだし、また、動きながらでも叫べるが、身振りは動きを止めるからである。

かうした観察は、『情念論』を著したデカルトの直伝とも言へるものでせうが、人間といふもの、社会といふものの仕組みを知るには、とても有益なものだと思はれます。アランの『八十一章』は、言はば哲学概論ですが、言語学、社会学の領域にも及んで、人が良く生きる為のヒントを与へて呉れるのです。アランに言はせれば、それこそが哲学といふものなのでせうが。

私の書いてゐるのは、あくまで皆さんがお読みになる際の参考となればといふ気持ちからで、アランの述べるところを簡潔に要約する力は、ありません。それに、細かな部分がおもしろいことも多いのです。是非、本文に当たられんことを。


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