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第1章 言葉について

注釈へ

知識が、言葉にすることで(discours 物言ひ、言説、語りによつて)初めて広がり、確かなものとなる様子を調べる前に、言葉を論じねばならない。これから後で述べること全てで、つまり抽象的な発明、空想、さわぐ心、制度のいづれにおいても、言葉は王である。なすべきは、簡潔な説明により、音楽の深みから代数の頂きにまで広がるこの美しい領域の全てを見せることだ。だが、まづ言葉の戯れが精神をその罠に絡め取る様をとくと見給へ。論者達は、言葉を創るためには互ひに理解せねばならず、従つて話すことを学ぶ前に話せなければならない、と言ふ。この子供つぽい議論は巧みな弁証の完全な例であり、話すことなく考へることをまづ学んでゐない者達は、これが哲学だと思つてゐる。

人の行ひが、と言ふのは打ち、与へ、取り、逃げるための動きのことだが、我々にはこれが世の中で一番関心のあるもので、子供が関心を持つ世界で唯一のものである。なぜなら、生まれて数年間は、良いことも悪いことも、全てそこから来るからだ。これらの行ひは、最初の印(signes)であり、それを理解するとは、まづ、その効果を身を以つて知ることに他ならない。人はこれから起こる物事を印によつて見ぬくことを学ぶのだから、人が何をするかを、とても早く、そのわづかな動きから見ぬけるやうになるからといつて驚いてはならない。これは、人の(発する)印(記号)といふ膨大な領域を記述することだ。そのためには、まづ、人の行ひの素描、あるいはその始めを見分けることがあつて、これでその続きはかなり予測できる。そして、これが殆ど全ての身振りの源で、拳を上げる、手を差し伸べる、腕を組む、肩をすぼめる、などが示すとほりだ。

そこから自然に、動きの準備へと移る、これが態度である。跪いて地面に顔を向けた男は戦はないと解るし、背を向ける男は恐れてゐない、腰を落す男は飛びかからうとする、といふ具合だ。そして、この動きの準備による付随的な効果にも留意する必要がある。これは、人体の構造から出て来るもので、最も簡単な生理学によつても知られる。顔の赤さや青さ、涙、震へ、鼻や頬の動きなどで、最後に叫びだ。これは筋肉収縮の自然な効果だ。そして、この最後の印には大いに注意しなければならない。他の印を押しのけて、代数まで生み出す運命を持つてゐる。その道筋をここで述べるのだが、その前に、考へといふものは、自然状態では留められた動きに他ならないが、それ自体が明確な印を示すことに注意を促すべきだらう。それは止まることそのものであり、眼の表情や計算された動き、そして手の動きである。それによつて、我々はあらかじめ見える物に触れ、測る、あるいはただ良く見え、聞こえるやうにする。

かうしたことは、全てかなり良く知られてをり、それを思ひ出してもらひ、また、我々は動物、特に家畜の印を人間のものと同様に解釈する術を知つてゐると言つておけば足りる。騎士は、歩みや耳で、馬がすることを見抜く。ここで、言葉は社会の子であることを考へねばならない。それに、人間は最初一人きりで、それから人間と結び付く、といふのは馬鹿げた作り話に過ぎない。ここで、どうしてもアガシズの強い言葉を引用して置きたい。「ヒースがいつでも荒地であつたやうに、人間はいつでも社会であつた。」そして人間は生まれる前から社会に生きてゐる。かうして言葉は人間と同時に生まれた。そして、我々が社会にある人間の力を感じるのは、いつでも言葉によつてである。人々が逃げると人は逃げる。それは、語ることといふ制約なしで語り、理解するといふことだ。だから、模倣は教育であり、それが如何に印を自然に単純化し、統一するかを理解しよう。印はそこから社会自体の表現となる。儀式は、かうして常に、しきたりとなつた印から成り、そこから身振りの術や踊りが出てきた。これらはいつでも礼拝と結び付いてゐる。そこから、すでにしぐさや叫びの約束事としての言葉が出る。

後は、なぜ声が優位となつたかを理解することが残されてゐる。といふのは、それが言葉の変化の秘密の全てだからだ。人間はその身振りを語つた。何故か。ダーウィンは、その有力な理由を示した。叫びは夜でも理解されるといふのである。他にも理由はある。叫びは注意を引くが、身振りはそれを前提としてゐる。そして、叫びは動きに伴ふが、身振りは動きを中断させる。動きと驚きの生活を思つてみよう。抑揚のある叫びが生まれ、始めは身振りに伴ひ、自然により明確なものとなり、身振りに取つて代はるのが見える。かうして声に出した慣はしとしての言葉が生まれる。だが、文字は、固定された身振りに他ならないが、これもまた役に立つので、人間はその言葉を書くことを学ぶ。即ち、音や調子を最も簡単な身振りによる素描で表現することである。

この書かれた物は、最初、音楽のやうに、歌はれたに違ひない。それから、眼は読むことを学び、音が、知られてゐるやうに常に単純化され、融合して、それに正確には対応しなくなつても、文字の形や綴りから離れなくなる。かうして書物により、言葉は固定された対象となり、眼で数へられるやうに、手で分類し他に移せるやうになる。しかしながら、これらの性質はさわぐ心の動きを逃れるものの、心の動きは自然な努力を行ひ、これらの印の中に、置き代へられた身振りや叫びの魔術的な力を探し出さうとする。だが、ここではこの言葉の魔術についてはこれ以上述べまい。これから述べるのは、限定された(定義された)言葉、あるいはさうあらうとする言葉についてであり、言葉だけで考へるといふ活動についてなのである。かうした知識を、それが正しい限りにおいて、論理的と呼び、その濫用は弁証的と呼ぶことが出来よう。


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