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第2章 本能

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ここでアランが述べてゐるのは動物機械論だと言へるでせう。人間機械論ではありません。ただ人間も本能に身を任せると機械に堕す。アランの考へははつきりとした二元論で、心身の結び付きを強調する禅などとは逆のやうに見えますが、身体の訓練により心の乱れを静めようといふ点では、似てゐるとも言へます。

動物は考へるかといふ問題について、アランは

動物の思想といふ一種の神話も作り出さうと思へばいくらでも作り出せるのだが、戲れに過ぎない。

と言つてゐます。

判斷と幾何學とによる秩序があつてこそ無秩序が現れるのだ。思想家を缺いた思想とは結局何を意味するのか。

アランの言ひたいところは明確で、読んで頂けば分かると思ひますので、細かな点ですが訳文の気になるところだけ注をつけて置きます。

第二段落の始めに「爆發機械」と訳されてゐるのは<内燃機関>が普通です。同じ段落に「動物は常にこの凡てと契約を結んで行動を起こさざるを得ない」とありますが、contracter といふ動詞は契約するといふ意味のほかに縮めるといふ意味もあるので、<身体全体(の筋肉)を縮めながら>と読むこともできるでせう。

この段落の最後に「栗鼠リスは牡蠣と同樣な組織體だが」とある部分は、<栗鼠は牡蠣が集まつたやうなもので>と訳す方が適切だと思ひます。

第三段落に

即ち、人間はその身體や身體の細かい運動を、運動自體或は對象の動きから來る快不快の情を念頭に入れずに、多かれ少かれ正確に知覺する。

とあります。運動自體云々の挿入部分は、原文では文末にあり、

運動自体或は対象の動きから来る快不快の情についても知覚してゐることは考へに入れないとしても。

と読むのが良いやうです。


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