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第3章 宿命論

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宿命論とは、將來この世で起こる事は、書かれてゐる豫言されてゐると信ずる傾向をいふ。

我々がそれを知つてゐて努力しても予言を外すことはできず、逆に予想されない回り道によつてそれを実現してしまふと考へるのです。ギリシャ悲劇の「エディプス王」などが典型でせうか。

最初の段落の「言葉は信仰を建設するどころではない」で始まる文は意味が取りにくくなつてゐます。以下のやうに訳すこともできます。

これで何らかの信念の基礎が出来るといふのではなく、すでにしつかりとした信念の対象となつてゐて、言葉によるよりも固い基礎を持つところを、見かけの議論として示すから、この言葉の遊びが我慢できるのだ。

第二段落のはじめにある救霊予定の教義といふのは、救はれる人達はあらかじめ神の意志で決められてゐるといふカルヴィン派の主張で、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で取り上げてゐる教へです。

第三段落では、予言が何故信じられるやうになるのかが分析されます。中でもアランが注目してゐるのは、

豫言の成就は屡々僕等自身なり僕等の周圍の人々なりの手に據る

といふ事情から、 予言が自己実現する傾向を持つことです。

第四段落では、さらに、「各人自身が自分についての預言者なのだ。」と述べられます。この段落にある次の文章はわかりにくい。

何故かといふと明瞭な判斷は、かういふ事柄に魂があると認めず、さういふものは、當然偶然のメカニスムに連れ戻し、永年の經驗も何一つ變へぬ教理といふ迂路うろを辿つてゐる方がいゝと思つてゐるからだ。

次のやうに読む方が原文に近いのではないかと思ひます。

と言ふのは、鍛へられた判断力は、かうしたことを魂から追ひ出し、偶然な機械仕掛けへと然るべく追ひ返すのだが、それには年齢の経験では代替できない教理の遠い回り道が要るのだ。

自らの内部に感じられる動きに愛とか野心とかの名前をつけることで、我々は自分自身についての予言の実現を後押しするのだが、これから逃れるために必要な判断力を養ふには、心や体の仕組みについての理解、つまり哲学が欠かせないといふのです。


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