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第3章 運命論について

注釈へ

運命論とは、世の中で起こることは全て書かれてゐるか予言されてをり、我々がそれを知つてゐて努力しても予言を外すことはできず、逆に予想されない回り道によつてそれを実現してしまふと考へたがる傾向のことである。この教義はしばしば神学的に示される。先を見透す神に未来を隠すことはできないといふのだ。この美しい結論が同時に神を鎖につなぐのも事実だ。その力の主張は自らの予知に対立する。

だがかうした言葉の遊びには判断を下しておいた。これで何らかの信念の基礎が出来るといふのではなく、すでにしつかりとした信念の対象となつてゐて、言葉によるよりも固い基礎を持つところを、見かけの議論として示すから、この言葉の遊びが我慢できるのだ。運命論は神学から派生するのではない。私はむしろ運命論が神学を打建てるのだと言はう。素朴な多神論では、運命は神々の上にあるのだ。

救霊予定説は、しばしば誤解されてゐるが、この自然で、一般的で、有害な信念の源に、もつと近い所にある。救霊予定説では、正しくあらうと努める被宣告者 condamné に神が罠を仕掛けるとは考へないで、逆に外部的な機会はどうであれ、恩寵や奇跡によつてさへ、一番奥の性格は決して変らず、好むところの悪徳で徳の実践も毒してしまふと考へるからだ。例へば根つこからのペテン師は、国益のためのペテン師になるのがせいぜいで、あるいは詩人になり、人々から尊敬されるかもしれないが、審判者の前ではいつでも同じなのだ。この厳しい教義は、罪、改心さらに贖罪の中にも充分な証拠を見つけ出す。

しかし、この想定されてゐる性格は、抽象的な偶像であり、弁証法的な心理学に適したものである。幸ひ、人がその根つこよりもその行ひ次第であるのは、普通の宗教が見分けてゐるとほりだ。だが誰がこの宣告の危険に気づかないだらうか。これはすでに殆ど呪ひである。子供は、そして大人でさへも、自分の過ちに運命を読み取らうとする傾向が強すぎる。そこに審判官の権威が加はれば、自分に絶望し、猛り狂つて、人が言ひ自分がさう信じるとほりの姿を見せる。ここで我々はさわぐ心の最も深く秘されたものに触れてゐる。

神々しい者や魔女の予言が、外的な命を持たぬ原因に依存する時には、偶然に実現することがあり得る。あるいは兆候についてのより進んだ知識の効果か、あるいは兆候に気付く感覚の鋭さに因る。これについては、人が予言は殆ど全て忘れてしまふといふことを言はねばならない。それが当たつたから思ひ出すことが多いのだ。だが予言者に与へられる信用はもつと重要な隠された理由に係はる。しばしば実現は我々自身や我々を取り巻く人たちに依存する。そして明らかに、多くの場合、心配や希望がそのものを呼び寄せる。酷い事故を恐れると、それを避ける心構へがうまくできない。特にそれが避けられないと信じる傾向があるとさうだ。

だが私が人の憎しみを恐れてゐるのだとすれば、あるいは単に犬が襲つてくるのでも、その私の考へはいつでも外に表れて予期するところを生み出す。予告された未来が私だけに依存するものであれば、私はまもなく自分の中にその兆候を見つける。罪や狂気、臆病、肉欲、あるいは単に馬鹿げた言動を避けるための良い方法が、いつでもそのことを考へることでないのは確かだ。逆に、嘘やねたみや乱暴から逃れてゐると信じることは、かなりの助けになる。かうした理由から、予言者の権威が終はるのは当分先だ。

だがこれらの信念はより豊かな土壌に生きてゐる。人は誰でも自分自身の予言者なのだ。我々の本能的な動きは、上に述べた仕組みにより自動的に始まり、同時に感じ取られるのだから。大胆な動きは軽快さにより予告され、それは栄養と休息を取つた筋肉が目覚める感情に過ぎない。怒りは混乱した痙攣と血の熱さ、息、叫び、言葉で予告される。恐れは、それ以上だ。野心、愛情、虚栄心のすべての足取りは、他人の動きと同様に予測できるが、違ひは我々がそれを手に取り、指揮し、それを名付けるにつれて完成に向けて押し進めることで、その結果、この自らの自らへの予言は違ふことなく実現する。

と言ふのは、鍛へられた判断力は、かうしたことを魂から追ひ出し、偶然な機械仕掛けへと然るべく追ひ返すのだが、それには年齢の経験では代替できない教理の遠い回り道が要るのだ。かうして本能が精神の最初の客体であるやうに、運命論はその最初の教理である。ホメロスの英雄は素直にかう言ふ。「私は足や手に、神が私を押してゐるのを感じる。」考へる動物は、この考へを通らねばならないのだ。


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