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第5章 野心

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アランは、情念では身体的なものが大きな役割を持つといふ考へ方を持つてゐて、この章の始めに出てくる

情熱は力への慾望より寧ろ、服從慾にある。

といふ主張にも、それが出てゐます。なぜ、服従慾の方に情念は強く現れるのか。野心家は表面を飾らうとして感動を面に出さないので、むしろ倦怠に陥るのに対して、卑下した野心とも呼ぶべき服従慾は、ふるへたり、怒つたりしてゐるからだ、といふのがアランの意見です。

常に肉體の動きが何を宣言し、何を意味するかを知らねばならぬ、凡ての情熱は、其處に胚胎するのだ。

二人の友達が危く仲違ひしさうになるのも、隠れた憎悪のためではなく、

聲の調子が妙だつたとか、息が苦しかつたとか、咽喉が詰つたとか、要するに疲勞の他には何もなかつたのである。

要するに、人間の情念は、身体の機械的な原因によるものが多い。さらに言へば、一度追ひ求めると、それを追ひ続ける傾向や、競争によつて野心が刺激されるといふ心の動きも、アランには機械的なものだと見えてゐたのかもしれません。

では、どうするか。

気樂さとか率直さとかいふものは、たとへ單なる禮儀に由來したものでも、野心の苦しみを減らす

と、ここまでだと仏教と似てゐるかも知れませんが、

が又、樂しみも減らす。

と付け加へるところが、アランらしい。

アランは『定義集』といふ本を書いてゐますが、その中で、野心は以下のやうに定義されてゐます。

これはわれわれの行動が反対にあい、怒りでかっとなったとき生まれる情念である。しかし野心という情念は、すべての情念と同じように、我々の欲望を妨げる、あるいはただ、まったく重んじないと見られる人たちに対してだけ拡大する。その時われわれは、説得したい欲望と強制したい欲望とのあいだに分裂している。人は愛のなかには野心があることを知るだろう。また、野心は他者に対する尊重を含んでいることを知るだろう。なぜなら、他者から認められると得意になるだろうから。しかしながら、人は他者を強制しようとする限り、他者を軽蔑しているのである。これらのいらだたしい矛盾が、野心という情念を定義している。この情念を制御する感情は、誓って自分の同胞を愛し尊敬することから出てくる。それによって、同胞は教えられることになる。慈愛はこの高貴な野心にふさわしい名である。
(アラン『定義集』神谷幹夫訳 岩波文庫より)

この文章から窺はれるやうに、諦念ではなく、アランは慈愛を目指すのです。


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