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第9章 幾つかの形而上学的議論の検討

注釈へ

私はヒュームに、彼がある神学者から取つて来た、原因に関する美しい推論を見つけた。全てには原因があることを証明するのが課題である。その神学者はかう論を進めた。ある原因を持たない存在があると仮定しよう。従つてそれは無から来たことになる。そして無は、何物でもないのだから、何を生むこともできない。だが、ヒュームは言ふ、原因を持たない物は無から来ると仮定するのは、まさしくすべてが何か他のものから来ると仮定する事だ。そしてまさに問題となつてゐたことだ。私は未熟な聴衆のためにかう付け加へよう、何も生まない無の議論により、この一節から注意が逸らされてゐる、と。そして、この一片も私には他方よりもましだとは思はれない。何故なら、私は無がどのやうなものか思ひ描けないし、それについて何を考へもしないからである。それについてどうすれば何か言へるだらうか。だが言葉は全てを許す。

ヒュームを読むと、正しく築かうとする時に破壊者は最も有用な人間であることが確かめられるだらう。私はそこで、想像力は全ての心像をどのやうにも結び付けられる、といふ大事な指摘を見つけた。機械が宇宙の姿をした一連の考へを作り出すといふイギリス式の小さな体系は、これで退けられる。諸君は、原因といふ主題について、哲学者の中間的な位置をしつかりと掴むことができるだらう。これを保つ事は難しく、カントを読むのが最初とても大変なのもこのためだ。何故なら、物理学者達の機械論も何らかの根拠を持たねばならないのだから。そこで先に見た神学者の結論は良いのだが、推論が拙いといふことになる。経験における全ての物の状態は、前の状態が法則に従つて変化したものだ。だがこの関係は、これがないと繋がりの経験といふものがないのだが、全ての経験の外では何物でもないのだ。純粋な論理や修辞学は、それを打ち立てるために何もできない。

かうした指摘について熟考するのは、有名な第一原因についての議論を乗り越えたいのであれば、無駄ではない。この議論はどつしりとしてゐるので完全に押しのけるには純粋な論理においてしつかりと立場を決めておく必要がある。その議論はかうだ。物の一状態は物の別の状態がこれに先立つのでなければ、そして更に別の状態がこれに先立つのでなければ存在できなかつた。かうして限りがない。よろしい。だが物のある状態が存在すれば、その存在の全ての条件は与へられてゐるか、与へられてゐた。この全てといふ点を良く理解すること。その勘定は、その物の存在自体により済んでをり、完成され終はつてゐる。従つてこれらの条件が無限にある、つまり未完成であるといふのは、はいといいえを同時に言ふことなのだ。

ある原因の前に別のがあり、それが限りない、といふ考へは従つて不充分なのだ。これは、現実のあるいは実現された無限といふのは矛盾を孕むといふ言ひ方で表されることもある。従つてそれ自体は原因を持たないある原因つまり第一のものが必要となり、それが条件の系列を止める。何故なら、つまるところ現在の状態は存在してをり待つては呉れないのだから。それは自らとともに充分な条件を引きつれてゐる。そこから一連の結論が出て来る。原因のない原因を唯一で神のものと認めるか、引き起こされたのではない原因といふもの、これは自由といふもので道徳が教へるやうに多数あるだらうが、単にこれに席を予約するか、である。だが結論は措いて、議論を見よう。

最初の指摘。全ては原因を持つといふ原則によつて、この原則を否定する結果となつてゐる。と言ふのは、それ自体は原因を持たない原因に辿り付くのだから。ここに何か言葉の罠があることの証拠だ。第二に、変化を表す場合の原因といふ関係を取ると、後に続く物の状態は直前の状態の結果であることが分かる。それは望むだけ近いもので、言葉を変へれば、変化には連続性がある。これは太陽系でも明らかで、そこでは明確に重力を持つ物体の状態はどれも限りなく近い別の状態に依存し、これは更に別のものに依存する。ここで言葉が我々を欺く様を見給へ。

私は一つの状態、別のものと言つたが、両者の間に私は望むだけの別の状態を見出すだらう。従つて、私が全ての原因を語るとき、ある数の原因を意味してはゐないのだ。そして、もはや数がないとなれば、実在する無限についての論理的な不可能は消える。最短の間隔にも望むだけの数の原因が含まれるだらう。だがその数は、原因を数へるとして、数へる私の外にあるのではない。自分の計算で、自然を掴む代りに、自らを罠に落としてゐるのは私自身なのだ。第三に、数の成り立ちを考へに入れないと、無限といふ言葉には殆ど恐怖を覚えさせる曖昧さがある。何故なら、それは完成されたもの、完全なものも、未完成なもの、不完全なものも指すから。だからこの無限の生成が物を説明するのに十分だといふ言ひ方も出来る。無限は全てに十分だからだ。だが言葉は何に対しても十分ではない。

ライプニッツは我々にもつと驚くべき形而上学の議論を残した。そこでは無限が過去に作られるのではなく、現在の時点で物を支へるのだ。複合物は、と彼は言ふ、成分がなければ存在しない。もしこの成分がそれ自体複合物だとすれば、我々は別の成分へと追ひやられ、切りがない。だが複合物が存在すれば、今からその成分は存在する。それは従つて単純であり、絶対的に単純である。それは精神である。論理の遊びがこれほど気の利いたものを生んだことはない。しかしながら、単純な成分が集まつてどうして大きさが出るのかは、それも別の遊びに過ぎないし、訊かないとして、論理的であらうとすれば物は実際には複合物でも成分でもない可能性があるとだけ指摘して置かう。何故ならこの二律背反は我々のものなのだから。そして言葉が自然ほど豊かであることは証明されてゐないし、ありさうもない。読者に知覚なしの推論に対する不審を持つてもらふにはこれで十分だ。この用心は、その望むところをいかにも上手く証明するさわぐ心に対するものだ。


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