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第10章 疑ひについて

注釈へ

狂人は、動くときも考へるときも、決して疑ふことがない。拳を握り身体全体を 投げ出すのが馬鹿げてゐるやうに、策略、恨み、恐れや自分の考へを、自分の 欠点でさへも、信じ過ぎるのは狂気の沙汰である。だから疑ひは賢者の冠といふ ところだ。デカルトはこの点を十分に述べてゐるが、それは、人が、一つの 考への後には別の考へを持たねばならぬといふこと、そして全て考へに至る道は これ一つだといふことを理解するといふ条件付きである。しかし人はデカルトが 一度しか疑はなかつたのだと考へたがる。疑ふ人は、心を決めて揺るがぬ様子 なので、いつでも騙されるのだ。

狂人の動きは、捨て身である。恐れると戦ひは下手になる。信じ込んでゐるために、 動きが力任せになるのだ。しかし自由な動きは、良い剣士のやうに、一瞬一瞬 疑つてゐるお陰で、力強い。勢ひがあつて素早いが、憑かれてゐるのではない。 不意に動き始め、不意に止まる。判断次第でいつでも回り道をし、引き下がり、 戻る用意がある。発明家、統治者、救助者の動きは全て、ここにその模範があり、 戦ひの動きでさへも、その全体と部分の双方でこれを範としてゐる。私は職人の 動きのことを忘れてはゐない。客体の硬さと、他の動きでは十分持てない一時の ゆとりによつて、多分、一層調和があり知恵に満ちたものだ。しかしさわぐ心に それほど直に対するものではない。何故なら、それを呼び起こすことがないからだ。 吟味された動き、考へられた動きだ。かうして体操は、プラトンが望んだやうに、 智恵の第一課なのだ。

スピノザは、注意深い弟子で、全てを止めてしまふと見えるほどだが、確信の 無さと疑ひとが区別されることを望んだのは理由のあるところだ。多くの人が 自分は疑つてゐると言ふのは、何にも確信が持てないからだ。だが、臆病で 不器用では剣士には成れない。同様に絶望から思想家は生まれない。何にも確信が ない人は疑ふことができない。さうでなければ、何を疑ふと言ふのだらうか。 実のところ、この自称疑ふ人達は、むしろ一瞬の信念を持つてゐるのだ。煉瓦の 山に躓く男は、そんな風に動くのだ、と言ふこともできよう。

誰もが一番知つてゐる事を一番疑ふ。決して、傍観者が言ひたがるやうに、 証明の弱点を知つてゐるからではない。逆に、その力を知つてゐるからだ。 組んだ者には解くことができる。細部に至るまで、証明が満ち足りた強い疑ひに よつて試されるのは、経験の示すところだ。疑ふことを恐れると、証明は弱い ままだ。ユークリッドは明らかさに反して疑ふことを知つてゐた人だ。そして 非ユークリッド幾何学は、より強い筆勢で別のものを描き出した。私はその 疑ひをさらに疑ふ。かうして考へが生まれ、また生まれる。

人は、石工が石でさうするやうに、考へをその場に置いたままにできればと 望む。しかし、考へ idées の記憶といふものは無い。言葉の記憶があるだけだ。 だからいつでも証明を見つけ直さねばならず、そのためにもう一度疑はねば ならない。「良いのは苦労だ」と古人は言つた。だから私は、自分が書いた物を 引きずつてゐる者には多くを望まない。ジャンジャックは書いた物が形になると すぐ忘れたと語る。しかし多分それは判断力が最後にもう一度見ると、倒れて 何も残らなかつたといふことだらう、同じ粘土が別の像に使はれるやうに。 自分に厳しいからではない。最早その時ではない。むしろ鷹揚で忘れるからだ。 本を書いた自分を許さねばならない。他人のために結んだら、自分のために解く 術がある。かうして考へ pensée は客体として物しか持たず、それで十分だ。

さて読者諸君のために。漂ふ疑ひといふものがあり、これは確信の無さに 過ぎない。そんな風に読んではいけない。さうではなく、愛情と信念をもつて 疑ふのだ、彼がさうしたやうに。真剣に疑ふので、悲しさうに疑ふのではない。 神学は全てを台無しにした。多くの人がパンを手に入れるやうに天を手に入れる 必要があるだらう。だが、歌ひながら手に入れるパンが一番だ。真剣さについては 言ふべき事が多くある。悲しくなるのは難しいことではない。それは下り坂だ。 だが、幸せであるのは難しく、美しい。だから何時でも証明よりも強くなければ ならない。襲つて来る諸々の考へといふやつは、何も良いところがない、特に 武器を持つて走つてゐるときには。この瞬間に、ソクラテスは笑つてゐた。 読者諸君、どうしても横切らねばならなかつたこの荒野を出るにあたり、 私は若さが君達を守ることを願ふ。


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