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第13章 笑ひについて

注釈へ

微笑みは笑ひの完成である。笑ひの中には、すぐに治まるとは言へ、常に不安があるからだ。しかし微笑みでは全ての緊張が解け、何の不安も身構へもない。だから、子供は母親に向かひ、母親が彼に微笑むよりも上手に微笑むと言ふことができる。かうして子供時代はいつでも最も美しいのだ。逆に、全ての微笑みには子供の部分がある。それは忘れることであり、やり直すことだ。全ての筋肉が、とりわけ頬と顎の力強い筋肉が休み、くつろいでゐる。これらの筋肉は怒るときには自然に固まるのだが、注意を払ふだけでも縮むのだ。微笑みは注意を払はない。目は、その中心の周り全体を見て取る。同時に呼吸と心臓の働きは大きく窮屈なところがない。そこから良い顔色と健康な様子が出てくる。不信が不信を呼び起こすやうに、微笑みは微笑みを呼ぶ。他人を、自分自身や周りの全ての物について安心させる。だから幸せな人達は、全てが自分に微笑むとよく言ふのだ。そして、微笑みで、自分の知らない誰かの痛みを癒すことができる。

だから微笑みは、自分のさわぐ心、他人のさわぐ心に対する賢者の武器なのだ。微笑みはさわぐ心の中心、その力の元を突く。それは決して考へや出来事の中にあるのなく、微笑むことのできない鎧を着た怒りの中にあるのだ。精神の徳は、あらゆることがらにおいて、それぞれの物に相応の重要性を与える言葉を選び、並べることで、さわぐ心を遠ざけることにある。細かなものは細かいものとして、大きなものは驚かないでその大きさのままにしておくのだ。私は、自由な会話の危険を十分に示して、精神がなくては救はれないことを分つて貰はうとした。しかし、微笑み自体の中に、最も深い意味で、精神がある。自分自身が見定めて眼から離しておいたものに驚くといふのが、愚かさの最後の、そして最も隠された結果なのだから。この怖れには、どれも偶像崇拝がある。他方、神は自らの姿に微笑むのだ。この動きは形を完成させ、切り離す。かうして全ての偉大さは豊かさの中で完成し、その上に力の用意がある。美しい表現が、その報酬だ。

笑ひは痙攣を伴ふ。そこは、しやくりあげと似てゐる。しかし、考への歩みは全く逆だ。しやくりあげでは考へることで緊張するのに対し、笑ひでは緩む。ただ、驚きが大きかつた場合には、緩み方も乱れて、驚きが戻ることもある。笑ひの動きである肩の動揺を忘れまい。驚くと自然な効果として、胸を膨らませ肩を持ち上げて急いで備へる。もし判断の力で取るに足らぬとされれば、肩はすぐに戻る。肩が上がるのは、笑ひの要素のやうなものだ。笑ひで肩を揺さぶるためには、重要だといふ見かけによりともかく衝撃を与へて、大丈夫だと知りながらも心配せざるを得ないやうにすることが必要だ。しかし、心配しながらも、必ず大丈夫だと思ふことも必要である。笑はせる術は、この見かけを保ちながら、しかし判断する力があれば何の疑いもなくすることだ。をかしさは、偉さをうまく真似てゐながら、騙すまでには至らないといふところにある。酷いものでも、高みにゐれば笑ふことができるのはそのためで、恐ろしいもの、優しいもの、何でもさうだ。しかし、芝居じみたところがないと、つまり完全に表現されてゐないと、笑ひは全然なくなる。また、人は意識的に笑ふことができるし、特に微笑むことができる。そしてこの動きはさわぐ心に対して最も強力なので、微笑みは意志の最高の印であるとさへ言ひたい。殆ど言つて仕舞つたが、理性の特徴でもある。

しかし痙攣を伴ふ笑ひには、なにか機械的なものがあるのは、人の知るとほりだ。急激な弛緩が他の筋肉を動かし、しばしば、長続きはしない別の収縮にまで至り、その逆の動きにより休むのだが、均衡を見出すことはできないのだ、と考へねばならない。無害なちよつとした攻撃を、勢ひよく繰りかへすと、子どもだけでなく、大人でさへも、笑はせることができることが知られてゐる。同様に、ある種の精神espritは、ばからしさを見せずに、重要ではない言葉に重要さを与へる術で、特に予測できない時に勢ひよくやつて、笑はせることができる。ふざけるのがそれだ。さわぐ心は真面目さによつて恐るべきものとなるので、ふざけるのも、機知espritといふ美しい言葉に値するのだ。この拡張された意味は、警告のやうなものだ。精神は、それ以上のことができないときには、見張り、救ふのだ。伝説にある鍋をひつくり返す落ち着きのない妖精のやうに。


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