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第4章 自分を愛することについて

注釈へ

自分に十分満足してゐる人達がゐると言はれるが、私はそんな人達を見たことが ない。褒め言葉を、それも時々繰り返されることを必要としてゐるのは、愚か者だけ ではない。成功するとある種の自信が得られることは知つてゐる。しかし成功の直中に あつても、一番普通な感情は、それを支へねばならぬ事から来る不安だ。人の気に 入らないのは、つらい。気に入るのは心地良い。しかし自分だけを頼りにして気に 入ることができると信じてゐる男や女はゐるだらうか。

どんなに自信がある者でも、 礼儀と装飾を纏ひ、友達で勢力を増す。怠惰な社会の悪弊と自分について考へること への嫌悪から、殆ど誰もが、金を払つてでも、お世辞を求める。かうした手段で人は ある種の自信にたどり着く。しかしこれは自分を愛することではない。見栄だ。私の 知る限り、誰もこれを逃れてゐない。どんな褒め言葉でも常に少しは気に入るといふ 意味だ。私は見栄に心を打つ何かを感じる。それは、無邪気に他人の助けを求める ことだ。しかしこの飾りははがれやすい。見栄は見栄だ。

自分を愛するといふのは言葉の組み合はせだ。言葉は、私が何度も言つたやうに、 何でも許す。しかし、全ての愛は、自分の裡には無い何かについてのものだ。愛する とは、自分の外に富を見出すことだ。私が言ふのは、飾りではなく、身についた富で ある。そして自分から出て愛するのだから、自分を愛することは出来ない。他人が 自分について持つ印象を愛することは出来る。この印象が良ければ、世の中は心地 よくしつかりとしたものになるといふ意味で。しかし、この印象は私ではない。 どんな対象も、どんな物も私ではない。私は、主体なのだ。属性ではない。ここには どんな飾りもつけられない。私が為すこと、それだけが私だ。

しかし私の中には何も 残らない。習慣や才能を当てにするのは、他人を当てにすることだ。私には勇気しか 残らない。それも、勇気を奮ひ立て、持ち続けねばならない。それが客体となり、 それを愛さうとすると、消えてしまふ。思ひ出が少しは慰めになるとしても、美しい ものは重荷にもなる。よく私は、幾つかの非常に美しい作品の後で、何も良い物を 見いだせなかつた音楽家のことを考へる。多分彼は全ての才能を、自らを責めることに 使つたのだらう。気が狂つて死んだ。多分、多少の見栄を持つのは良いことだ。そこに 身を委ねるといふのではなく、ちやうど戸口で陽に当たるやうに。

ここで言葉の力が分かる。まづい表現から、最も空疎な論理が引き出された。人は、 その性質から、自分しか愛さないが、これは野蛮な状態だ、といふわけだ。しかし、 社会の絆により他人を勘定に入れ、自分の代はりに他人を愛することを余儀なくされる。 ついには、彼等を彼等のために愛してゐると思ふやうになる。自分を愛することから 他人への愛情への移行を説明した、充分に工夫をこらした本が数多くある。そして、 もし人が孤独と自分への愛から始めたのだつたら、やがて同類を愛するに至つただらうと、 私もさう思ふ。しかしこれは質の悪い代数に過ぎない。知られてゐる限りでは、野蛮人は 儀式の中で暮らし、共同生活を重んじてゐる。身勝手なところ(利己主義 égoïsme )は殆どない。身勝手は 文明の産物で、野蛮の産物ではない。その修正法である気遣ひ(利他主義 altruisme )も同様だ。しかし、 どちらも、実際にあるものといふよりも言葉だ。

私は、死の恐怖が命への執着の結果だと さへ思はない。人が何でも愛するものを愛するのは、命があるからだ。命があるから 愛するので、命を愛してゐるのではない。それに、全ての人が命を浪費するし、命を 与へる人も多い。しかし、ある暇な老人が、彼に残されたこの小さな炎に注意を向け、 医者に身を委ねるといふことがあるかも知れない。我々は彼が命を愛してゐるとは言ふ まい。むしろ彼は死を恐れてゐるのだ。また、この悲しい偏執においても、他人の意見や、 彼等に与へたい自分の印象についてとても気にしてゐるところがある。すでに見たやうに、 空論家の精神がそこに混じつてゐることは勘定に入れないとしても。要するに、身勝手を 考へるといふのは、いつでもまづい考へなのだと私は思ふ。自分について考へるのは、 何より体裁のためであり、いつでも一部は他人への配慮だ。各自が自らについて述べ、 他人の目に然るべく見えるやうに振舞ふ文学があること、それもしばしば文字にならない 文学があることを、私は否定しない。しかし、これは礼儀の研究でしかない。


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