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第9章 怖れについて

注釈へ

ここでは順番は中身ほど大事ではない。そしてさわぐ心を指す言葉はいろいろだが、それぞれに全てが含まれてゐることに気付く妨げにはならない。私は、その対象に従つていくつかを区別できた。今度は、その一番酷いものである怖れ、怒り、涙について述べる。かうした激しい状態は、スコラ哲学では激情 émotion と名付けられてゐるが、現実の危険、侮辱、死別などの外部的な出来事によつて急に生じることがあり得る。だが私は、特にさわぐ心との結びつきについて、それが激情を強めるのに与るかぎりにおいて、研究する。もし智恵の教義が本物の害悪に対する武器を探したとすれば、約束しすぎたことにならう。もし想像上の害悪を遠ざけることができれば、それでもう大したことである。

よく見ると、怖れといふものは、怖れの怖れ以外はない。だれもが、動けば怖れが消えることに気が付いてゐるだらう。明かな危険を見ると、しばしば怖れが収まることも。逆に、はつきりした知覚がないと、怖れが怖れそのものから栄養を得て育つのは、講演や試験が近づくときの度はづれた怖れを見ればよく分かる。驚いた結果、怖れの動きが急に広がり、急にしぼむことがよくあるので、筋肉を準備することの血流への影響が分かる。全ての筋肉が急に縮むので、小さな血管は突然押へつけられ、血の波が一番柔らかな部分に送り返される。この動きは、襲ひくる熱さと時には四肢の先端での冷たさの印象として感じられる。血がそこにたどり着くには力強い筋肉の間を流れなくてはならぬからだ。弛緩には心臓の早まる鼓動が伴ふ。一瞬止められた呼吸の自然な帰結である。

それは体が縮みあがつたのでしかない。怖れは小さな縮みあがりとそれにつづく緩みにより、要するに動きを伴はない警戒により始まり、大きくなる。むしろ、怖れとはこの動揺について我々が持つ感情なのだ。するとその原因を我々は探すのだ。羊飼ひが羊の鐘の音に注意を呼び覚まされ、何に怖れてゐるのかを探すやうに。しかし、我々の筋肉の群は、ずつと近くにゐる。怖れるといふのは、いつたい私はどうしたのだらう、と自らに問ふこと以上のものではない。いつでも周囲の対象へのこの動き mouvement があり、しばしば一瞬の仮定や空想を伴ひ、行動actionの可能性は閉ざされてゐる。これに対して筋道立てた考へ raisonnement は何もできない。注意は筋肉の大騒ぎを悪化させるのだから。よく聞かうとすると、人は息を殺す。理屈を聞いて安心するが、落ち着くと、対象の無い、自ら生まれ続ける不安をより深く味はうことになるのだ、と言へようか。現実の対象、現実の危険は、少なくとも我々をこの怖れ自体を見つめることから引き離す。誰でも、悲劇的な状況が怖れを生むのは、後から、それを考へるときだと知つてゐる。それは、後になると心像はとらへがたいものだとしても、体とその小さな動きは確かに現実のもので、注意を向けると、どんな小さなものでも、その効果が感じられるからだ。

行動によりこの病から解放される。しかし確信の無さと迷ひはそれを重くする。することが見つからないと、待つこと自体が苦痛だ。怖れとは、まさに、何か分からないが為さねばならない行動を待ち受けてゐることだ。しかし、適度に難しいがやり慣れてゐる細かな動きにより備へるだけで、気持が楽になる。先づ、自分が感じてゐることへの注意が減るからで、また、動きが筋肉を働かせ、揉みほぐし、血を流れやすくして心臓の負担を軽くするからだ。逆に、怖れを待ち受けることは、怖れそのものだ。だから、思ひ込んでゐる怖がりがゐる。夜に、墓地で、水の上で、あるいは道の曲がり角で。怖れは待てば必ずやつて来る。自分を知るといふことの意味がここではつきりと見える。自分を弱い、力がないと考へると、確かにさうなる。動くための力ではない。我々の動きは時に我々の期待以上のものになるのだから。さうではなく、耐へる力がないのだ。だから、自分の観察は狂気の始まりそのものなのである。


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