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第8章 賢さについて

注釈へ

賢さ sagesse は悟性 entendement 特有の徳である。しかし、このことから、それが全ての徳の共通の名なのだと受け取つてはならない。徳が賢さだけによる場合は、しばしば大胆さや燃え上がる創意が欠ける。賢さの一番対極にある欠点はまさに愚かさであるからだ。あわてたり思ひこみによる失敗のことだ。そして、賢いだけの賢者の徳は、どれもがこの失敗に対する用心である。しかし、失敗から生まれることがない真実は、子供時代を持たなかつた人間に似てゐる。ただ、人が慎重さとも呼ぶ賢さがないと、何も成熟しない。私はかうした老いた子供達を知つてゐる。

賢さの最初の果実は仕事だ。精神の仕事を言つてゐるのではない。私はそれが何なのか知らないのだから。さうではなくて眼や手の仕事で判断の客体を準備するものだ。全てを最初から発明したいと思ふことは美しい。この予期し見抜かうとする急いだ動きに代はるものは何もない。しかし、学校に入つて、著作者により書かれ、仮定されたこと、そして結論されたことまでも、それは何かがしつかりと分かるまで、何時でも正しいのだと受け取るといふのも賢い。たくさん、それもきれいな字で、書き写すのが良いのもこの理由からだ。読み返すのも良い。特に、精神の努力だと受け取られてゐるがいつでも的を外すあの力み無しで。

学校での練習は、どれも賢さに係はる。あまり大切にし過ぎるのも、軽蔑するのも危険だ。子供が決まつた時間には無理なくそれをやり、それ以外の時間には考へもしない、といふのは常に良い印だ。全てを覚えてゐようとするのは賢くはないのだから。曲芸が体操を台無しにするといふのは、どんな事についても正しい。曲芸にはなにか心を刺すものがあるが、それは知つたかぶりだ。ダンスの教師にもある。

人は精神を持つことを学ぶのではない。一番稀な賢さは、考へる能力を制御することにあり、ある種の狡(ずる)さがないとうまく行かない。さわぐ心の華々しい動きで、洗練された精神はいつでも、どんな状況でもあらゆる要求に対して策を持たねばならないといふやうに見える。それは正し過ぎるほどだ。鎖につながれた精神はいつでも理由や回答を見つける。知性は何にでも役立つ。しかし、精神がかうして、軽業師のやうに、離れ業や囚人の仕事に力を貸すのは、混乱の極みでしかない。

私が考へるときに、その効果や条件には注意を払はないのだと、心得ておくのは良いことだ。自分が考へるのを眺めることと、よく考へることを同時にはできない。従つて、そこではしつかりとした落ち着きと諦めが必要なのだ。自分に掛り切るのでも努力するのでもなく、むしろ一時逃げ出して、全てから離れるのだ。このため、本当の観察者は注意散漫で心ここにあらずと見える。つまり何にもしがみついてはならず、ラ・ブリュイエールが言ふやうに何事にも高ぶつてはならない。そこで短気な者は、彼が自由ではないと結論する。彼は自分の考へを思ふとほりできないのだから。しかし、私はもつとうまく、自分の必要に応じて考へる者は自由ではない、と言はう。だから、そこに自分を捜してはならない。さうした客体でしかないものは君ではないのだから。

この気持ちから謙遜が生まれる。これは賢さの一部であり、何の期待も持たないことにある。そして自分を、人があれこれ期待するやうな考へる機械だとは決して思はないことにある。いつでも信念が欠け、野心的な準備をし、最後には失望する、これが高慢の道筋だ。しかし、見つけたいといふ欲もさわぐ心の一つであり、他に劣らず精神を縛るのだと知るといふのは、きつぱりと世間を驚かすことを諦め、難しい状況の中で、ただ謙虚に待ち、祈るといふことだ。長い経験で、自分や他人を救ふことのできる本物の思想を望む場合には、いつでも、先づ受け入れて自らを諦めることが必要だと知られてゐる。「私のではなく、あなたの望みが叶へられますよう。」

人間は、自分を信じるためにこの回り道を見つけた。しかし他の作り話がこの僧院への隠居を乱し、精神を新しい恐れと新しい希望で占めた。それは脅しで愛されたいと思ふことだ。真の思想家達はむしろ沈黙により、試練の中での眠り、あるいは陽気さや快活さにより祈つた。ソクラテスが自らを必要とする瞬間にあれほど上手くやる術を心得てゐたやうに。私は、自然のすばらしい景観が我々の力や計画を越えてをり、確実で待つより手段がない危険と同様に、真の反省に役立つと考へる。これが試練の意味だ。だから、君の孤独、君の僧院は、人々の間にあるやうに。


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