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緒 言

注釈へ

哲学とは何か。哲学といふ言葉をごく普通に受け取れば、大本(おほもと)は逃さない。それは、各自の眼で善悪を正確に見定め、欲、野心、心配事や後悔を静めるといふことだ。見定めるには、物事を知らねばならない。例へば、愚かしい迷信や空疎な予言を打ち破ること。さわぐ心(passions)そのものを知り、これを治める術も必要だ。哲学による知識とはこれだと荒つぽく言つて、欠けてゐるものはない。それが常に倫理的(éthique)な、道徳的(morale)な理論体系を目指すこと、そして各自の判断に基礎を置くこと、頼りになるのは哲人の助言だけだといふことも分かる。哲学者が多くを知つてゐる訳ではない。物事の難しさを感じ取り、自らの知らない事柄を正確に数へ上げることが、英知(sagesse)への道となるからだ。ただ、哲学者は自らの知つてゐることを確かに、自らの努力で知つてゐることが必要だ。死、病、夢想、失望に立ち向かふ力の全ては、しつかりとした判断の中にある。かうした哲学の捉へ方は馴染み深いもので、これで十分なのだ。

この捉へ方を発展させると広々とした、しかしやぶの多い野原が見えてくる。さわぐ心(passions)とその元を知るといふ仕事だ。元には二た所ある。一つは機械的な原因で、これに対して出来ることは限られてゐるが、その原因を正確に知れば自由になれるといふことは、後で述べるとほりだ。もう一つは心の働きに関係する原因で、例へば実際の物音を聞いて必要以上に恐れ、強盗が家の中にゐると考へる、といつた思ひ違ひがそれである。かうした誤つた考へを正すには、物事と人間のからだ自体について、より正確な知識を持つしかない。人の体といふものは、たいてい私達の許しなしで、休むことなく物事に反応する。胸が高鳴つたり、手が震へるときのやうに。

かうして、哲学が一つの倫理に過ぎないものであつても、そのことによつて、ある種の普遍的な知識でもあると知られる。ただ、私達の心の渇きや単なる好奇心を満たすための知識とは、目的が違ふ。英知へとつながるものである限り、哲学者にとつて全ての知識は良いものだ。しかし本当の目標は、常に精神(esprit)をよく見張ることにある。この見方から、自然に知識の批判(critique)といふ考へに導かれる。自分の誤りにちよつと目を向ければ、さわぐ心によつて、また、二つのものから生ずる確かめやうがなく実体のない膨大な知識によつて、私達の知識がぼやけてゐることが分かる。二つのものとは、どのやうな単語の組み合せも抵抗なく許す言葉と、神々や運命的な力に満ちた別の世界を発明し、そこに魔法の手助けや予言を探さうとする(再登場の)さわぐ心である。ここでは批判と基礎作りが必要であること、即ち、宗教の批判を通して、神々を生み出す人間の本性についての科学を引き出すべきだといふことが理解できよう。全ての知識から常にそれを形作る者へと立ち返り、より賢明な者に変へようとする、この批判の動きを人は反省と呼ぶ。

本論は、さわぐ心とその危機から始めて、(年をとつて熱が冷めるのと同時に)これを正す冷静な分析へと苦労してさかのぼる代はりに、ある意味では議論を終はりから始めて、意見を見張ることから説き起こして行ひの見張りへと進むので、驚かないやうに。


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