『感想』をたどる(51~56)

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第五十一章

第五十一章でも、量子力学の解説が続いて、観察の問題やハイゼンベルクの不確定性原理などの説明に終始してをり、ベルクソンの引用は、ありません。

文学の雑誌である『新潮』に、これだけ詳しく科学の話を書くといふのは、めづらしいことだと思ふのですが、文系の人間にも、科学の動きを勉強しろ、と言ひたかつたのでせうか。あるいは、理系の人達にも読んで欲しかつたのでせうか。

第四段落に、次の文章があります。

言ふまでもなく、「不確定性原理」が、原子の領域だけに適應出來るものなら、原理とは言へない。原理はどんな物理的實在にも通用するのだが、上の二つの量に關する極小の不確定性が常数 と同じ程度のものであるから、巨きな對象の測定には無視出來るし、實驗上の誤差によつても、全く埋没して了ふ、と考へればよい。

小林秀雄は、上記のやうに、簡単に済ませてゐますが、「不確定性」などの不可思議な性質を示す量子力学の世界と、我々の日常の経験とを、どう結び付けるか、といふのは、現在でも専門家の間でいろいろと議論がある、難しい問題のやうです。相対性理論の場合には、ローレンツ変換の式で、高速 を無限大にすれば、古典力学のガリレオ変換に帰着するといふ、分かりやすい関係がありますが、量子力学では、さう簡単には行きません。

この問題について、最近では、量子力学的な系と外界との相互作用から説明しようとする「量子デコヒーレンス」といふ理論も出てゐます。この理論では、観測によつて量子力学的な系の状態が一瞬にして変化するといふ、伝統的な量子力学の解釈は誤りとされ、系の変化は、非常に短時間に生じる現象ではあるものの、環境との相互作用による一連の変化だとされるらしいのですが、発展途上の理論であり、謎の解明は、まだ先のやうです。

細かな話になりますが、気になる個所を一つ二つ指摘しておきます。

第二段落に、

嚴密に言へば、天空の星も、望遠鏡で覗かれゝばその運動を變ずる筈である。

といふ文があります。これは、科学的には誤りでせう。望遠鏡で見てゐるのは、星が出した光であり、望遠鏡からの光が反射するのを見てゐる訳ではありませんので。ただ、光を出す前の星と、出した後の星とでは、状態が異なりますので、星が見えるためには、星の状態が変はることが必要だ、といふ点は、正しいのですが。

第四段落には、次の文があります。

もし、その價が無限大だつたとするなら、 の價を持つ光子は無限小になるわけだし、與へられたエネルギーを持つ光に含まれた光子の數は無限大になるわけだ。

「その價が無限大だつたとするなら、」は、「無限小だつたら」の誤植だと思ひます。

以上、粗探しのやうなことばかり書きましたが、基本的な事実について、小林秀雄の理解は正しいと思はれます。これらの事実を踏まへて、小林秀雄が示さうとしてゐること、即ち、量子力学が、ベルクソン哲学と同様に、巨視的な世界に適合した我々の物の見方を、微視的世界のやうな、それ以外の世界の現象に適用することの誤りを示してゐる、といふことも、間違ひないところでせう。


第五十二章

第五十二章では、観察者といふ観点から、量子力学と相対性理論の比較が行はれてゐます。『持続と同時性』からの引用が二か所ありますが、相対性理論の説明の中で出てくるだけで、ベルクソンとアインシュタインとの論争には触れてゐません。

第二段落にある次の文章は、相対性理論の特徴を明確に示したものだと思ひます。

たしかに相對性理論には違ひないが、その目指したところが絶對的な、物的世界の構造の包括的・客觀的記述にあつたといふ點を、はつきり掴んでゐないと、相對性理論といふ言葉は、却つて惑はしい言葉になる。なるほど、この理論は、物理界に、全く革新的な考へを導入したが、私達とは無關係な、獨立した客觀世界の實在を容認するといふ近代科學が護持して來た考へは、この理論のうちで少しも動揺してゐない。

また、小林秀雄は、相対性理論が時間の空間化、幾何学化を目指したものだと繰り返し述べてゐます。

自然の純粹な嚴密な説明を期して、彼は、ひたすら力學ディナミスムを離れて機械學メカニスムの道を行き、世界の空間化、幾何學化といふ理想に突進した。
(第五段落)
相對性理論の空間は、時間さへ空間化する事によつて、徹底的に幾何學化された。
(第七段落)
常識にとつて極めて自然な時空の分離を、出來事の世界の空間化によつて理論的に統一したところに、この理論の獨創性があるわけだが
(第八段落)

かうした見方は、一般的なものだと言へるでせうが、第五十章でも触れたやうに、チャペックは「空間の時間化」と見る方が正しいと述べてゐます。少し長くなりますが、その著書 "The Philosophical Impact of Contemporary Physics"『現代物理学の哲学的影響』の巻末にある要約から、一部を訳してみませう。

古典的な自然像では、世界の歴史は、瞬間的な空間の連続的な前後関係として表現される。瞬間的な空間は、全てが、時間軸に垂直であり、それぞれが「ある瞬間の世界」を表現してゐる。それぞれの特定の瞬間では、四次元的な世界の過程から、瞬間的な三次元の断面を分離することができると考へられてゐた。全ての時点で、空間は、言はば、四次元的な世界の歴史の横断的、瞬間的な切断面だつたのである。相対論的な時空(空-時といふのが、より適切な名称であらう)では、かうした絶対的に同時な事象を内に持つやうな瞬間的な空間は、人為的、形式的な断面に過ぎず、自然の中で、何もこれには対応してゐない。さうした断面は、相対論的な空-時で用ゐ続けるならば、基準となる枠組が異なれば、異なるものとなるだらう。この差異は、日常の経験では無いに等しいものだが、宇宙的な規模や光速に近い速度の場合には、無視できない。
従つて、局地的な「今」といふ概念は、人間や地球の規模で実用的正当性を保つてゐるが、巨大な三次元の「今」といふ概念は、その物理的な意味を完全に失ふ。エディントンが強調したやうに、世界に広がる瞬間といふものは無い。あるいは、ホワイトヘッドの言葉では、「ある瞬間における自然」といふやうなものは無い。この概念の排除は、古典的、ラプラス的な世界図式への最も深刻な脅威である。
静的、瞬間的な空間が、四次元的な生成の単なる人為的な切断面だとすれば、相対性理論が空間を時間に組み込むものであり、その逆ではないのは明白である。これら二つの概念の融合は、時間の空間化よりも、空間の時間化として特徴づけるのが適当である。

かうした考へ方から、チャペックは、相対性理論も、古典的な空間が前提としてゐた、一様性、ユークリッド的性質、硬直性、因果的な不活性、物理的内容物の独立性などの特徴を否定するものであり、自然界は遠い未来まで予測可能な機械的な世界ではなく、真の創造がある、生成の世界だといふ、ベルクソン的な見方を肯定してゐます。

ご関心のある方は、「要約」全文の拙訳をご参照ください。


第五十三章

第五十三章では、話が量子論に戻ります。ベルクソンの引用は、『思想と動くもの』の「序論II」と、『物質と記憶』の第四章からなされてゐます。小林秀雄は、最初の段落で、量子力学の世界が、巨視的な世界に適合した理性では扱ひ切れないものであることを示してゐます。

電子と呼ばれる一つの實在が、粒子とも見え、波とも見えるのは、こちらの觀察の條件によるが、この觀察の條件が、可能な限り精緻で客觀的なものである以上、實在には、理性の要求する圖式によつて捕へられるのを拒絶する何物かがある事を、率直に承認せざるを得ない。

さらに、第四段落では、この量子力学における理性と現実との不整合を、ゼノンのパラドックスに比してゐます。

ハイゼンベルクが衝突したのは、あの古いゼノンの、ベルグソンが、そのソフィスムに、哲學の深い動機が存する事を、飽く事なく、執拗に主張したゼノンのパラドックスだつたと言つて差支へない。

ゼノンのパラドックス、例へば「アキレスと亀」の一般的な解決策は、「亀がゐた所にアキレスが行く間に、亀は先に進んでをり、この操作を何度繰り返しても、アキレスは亀に追ひつけない」ことは確かだが、そこから「いつまでも亀に追ひつけない」といふことは言へない、と指摘することでせう。数学の言葉で言へば、等比級数の収束の問題として扱ふのです。

スタンフォード大学がウェブで公開してゐる哲学辞典でも同様の考へ方が採られてゐます。このサイトでは、ゼノンのパラドックスが後の哲学に及ぼした影響も言及されてをり、ベルクソンについて、次のやうな文があります。

Temporal Becoming: In the early part of the Twentieth century several influential philosophers attempted to put Zeno's arguments to work in the service of a metaphysics of ‘temporal becoming’, the (supposed) process by which the present comes into being. Such thinkers as Bergson (1911), James (1911, Ch 10 -11) and Whitehead (1929) argued that Zeno's paradoxes show that space and time are not structured as a mathematical continuum: they argued that the way to preserve the reality of motion was to deny that space and time are composed of points and instants. However, we have clearly seen that the tools of standard modern mathematics are up to the job of resolving the paradoxes, so no such conclusion seems warranted: if the present indeed ‘becomes’, there is no reason to think that the process is not captured by the continuum.

時間的な生成:20世紀の初頭、何人かの影響力を持つた哲学者達が、ゼノンの議論を、現在が姿を現す過程である(と想定された)「時間的な生成」の形而上学に役立てようと試みた。ベルクソン、ジェイムズ、ホワイトヘッド等の思想家は、ゼノンの議論は空間と時間が数学的な連続体としての構造を持たないことを示してゐると主張した。また、運動の実在性を保つ方法は、空間や時間が点や瞬間から成ることの否定だと主張した。しかし、我々が明らかに見たやうに、標準的な現代数学の手段によりパラドックスは解消されるので、かうした結論が当然だとは思はれない。もし、現在が「成る」のだとしても、この過程を連続体によつて捉へられないと考へる理由はない。

小林秀雄は、第五、第六段落で、かうした見方に異論を唱へてゐます。

だが、この考へは、物理現象の連續性といふ假説なしには成立しない。誰も、この假説の存在を氣にしなかつたのは、誰も物理現象の不連續を考へてもみなかつたからだ。常數hの發見によつて事態は一變した。力學的作用には連續性はない。
ゼノンのパラドックスは、或る理論でも、或る主張でもない、考へる人間の自然に對する全く率直な質問である、といふ事を看破したところに、ベルグソンの獨創性があつた。ベルグソンには、ゼノンのパラドックスの諸解釋といふやうなものは、少しも問題ではなく、矢はゼノンの時代と何の變りもなく、今日でも飛んでゐる、といふその事が、ゼノンの質問が今も猶生きてゐるといふ事である。ゼノンは實在する運動を知る知り方には二種類ある、何故かと問うたのである。經驗科學の囘答は、この質問の率直性を思はずになされたものであり、眞の囘答にはならない。

上に引いたスタンフォード大学の哲学辞典の筆者は、ベルクソンが等比級数を知らないと思ひ込んでゐたために、彼の言はんとしたところを掴み損ねたのではないでせうか。

第七段落では、ベルクソンの言葉を使ひながら、かうした自然科学の狭い見方が生まれる原因を述べてゐます。

物質自體に關する精緻な知識が、どうして先づ人間に必要だつたわけがあらう。私達の生活に何をいても必要だつたのは、物質に對する行動なり態度なりに關する知識である。生活する人間のオルガニスムにとつて重要なのは、全世界ではない。極く限られた實用的プラティックな世界である。知性はプラティックな世界に處する「工作人ホモファベール」の子だ。直接な経験から生まれたものではなく、有益な經驗から生まれたものだ。知性は精神と對象との直截な接觸といふ經驗の代りに、生活の要求に應じて分割された實在の經驗を、代置する。普通、經驗論が經驗を重んじ過ぎると言はれてゐるが、實在は、經驗にしか與へられてはゐないのであり、經驗は、いくら重んじても重んじ過ぎるといふ事はない筈のものだ。經驗論の誤りは、經驗といふ考への不徹底にある。私達の身軆的機能や要求に從ひ、事物の構造の内的方向に從はず、事物の外的整合に赴く經驗で満足してゐるところにある。經驗の原泉に關する直觀は誰も持つてゐるが、このうちで考へる困難は、「工作人」に生まれついた私達の自然な性向に逆行する困難なのである。

この辺りの議論は、特に、自然科学を学んだ人には受け入れ難い部分もあるでせうが、さういふ人達にこそ、一読してほしい文章だと思ひます。


第五十四章

第五十四章では、第四十九章から進められてきた量子力学についての解説を踏まへて、この新しい物理学と『物質と記憶』の第四章に示されたベルクソンの物質観との関係に話が進みます。

最初の段落に、小林秀雄が、量子力学について詳しく述べることにより目指してゐた所が明確に示されてゐます。

内省によつて經驗されてゐる精神の持續と類似した一種の持續が、物質にも在るといふベルグソンの考へは、發表當時は、理解し難い異様なものと思はれたが、今日の物理學が到達した場所から、これを顧るなら、大變興味ある考へになる。物理學が、常數hの有限値の爲に、物的世界を、マクロコスムとミクロコスムの二つの世界に區分して理解しなければならなくなつた事は、「實用のプラティック」世界の奥に「運動性モビリテ」の世界が在るといふベルグソンの哲學的反省に一致してゐる。さうは言へないとしても、兩者は決して無關係ではあるまい。

第三段落では、ハイゼンベルクの直面した問題とベルクソンの問題との類似について、かう述べられてゐます。

さういふ次第で、量子論の統計的性格は、仕事の出發點にある以上の二つの事實に同時に處する私達の精神の緊張を象徴する、とハイゼンベルクは考へてゐる。彼は、このやうな哲學的問題を、好んで選んだわけではあるまい。可能な限り自然に忠實たらんとして、研究の果てに自ら姿を現したものであらう。これは大變ベルグソン風な問題である。ベルグソンも亦、可能な限り自然に忠實たらんとしてプロチノスの「自然は口を利く習慣を持たぬ」といふ言葉を好んだ思想家であつた。

ベルクソンが自然に忠実たらんとした、といふ点に注目すべきでせう。ベルクソンは、あくまでなまの事実から始めようとした哲学者でした。そして、人間が生きるために用ゐてきた言葉や、そこに反映されてゐる世の中の見方、つまり既存の固まつた枠組みを前提とし、これに頼る思弁を否定しました。

ここで、生の事実といふのは、物理学的な事実ではありません。物理学も、人間の生きるための物の見方を延長し、厳密にしたものだからです。さうではなく、根本的な経験にまで立ち戻ることで、明確になる事実です。さうした事実の獲得を可能にするのが直観 (intuition) で、専門家には、いろいろとご意見がおありでせうが、これは、フッサールが言つた「現象学的還元」と、基本的には同じ考へ方ではないかと思はれます。

生の事実は、我々に直に与へられてゐるものです。これを明らかにするために、ベルクソンは、失語症のやうな心理学の成果も利用してゐますが、基本的な部分は、内省によつて得たのではないでせうか。さうしたベルクソンの探究の結果と、物質の世界を究めようとする量子力学との間に一致が見られるとすれば、驚くべきことですし、それ自体が、微小な物理世界と心理との間に、何らかの関連があることを想はせます。

小林秀雄は、第四段落の末で、「だが、もう、知覺理論と離す事の出來ぬベルグソンの物質理論に戻つてもよからう。」と書いて、第五段落以降、『物質と記憶』に話を戻し、同書の第一章でベルクソンが挙げてゐる例を使ひながら、かう述べてゐます。

光源Pから發する光が、網膜上の諸點を刺戟する時、科學は、P點に、一定の振幅と持續とを持つた振動を極限する。意識も亦同じP點に光を知覺する。ベルグソンは、兩方とも正しい、と言ふ。この場合、光覺と運動との間には、本質的な區別はない、と考へる。これは、最も素直な自然な考へなのであるが、一般にはさうは考へられてゐない。何故かといふと、私達の知覺が、異質の諸性質から成立つてゐるのに對し、知覺された外界は、同質で計量可能な變化に分解される。つまり、一方に非延長と性質とがあり、一方に延長と分量とが現れる、さういふ根強い考への支配によつて、問題が徒らな困難に出會つてゐるからだ。その上、この困難を、觀念論により、或は唯物論によつて解決しようとして無駄な議論をやる。大事なのは議論ではない、外界が意識に直接與へられてゐる基本の經驗に立還り、意識の證言を信ずる事だ。さうすれば、この性質と分量との判然とした對立は、悟性の作爲に過ぎず、自然の設計ではない、悟性の機能は、自然の設計を嚴密に圖取りするやうには、元来出來上つてはゐない、といふ確信が得られるであらう。これは、まさに、量子論の物質觀が別の道から到達した確信である。

そして、最後の二つの段落では、『物質と記憶』第四章から、「非延長と性質」、「延長と分量」といふ二つの極が、つながつてゐるものであることを述べた部分を引用してゐます。この問題は、第五十五章でも、引き続き取り上げられます。


第五十五章

第五十五章では、前章に続いて、量子力学と関連付けながら、ベルクソンの物質観が述べられます。『物質と記憶』の第四章と「要約と結論」の文章が、引用符によりベルクソンの文章であることを明示する形で、数多く引かれてゐます。

第一段落では、ベルクソンの考へとハイゼンベルクの考へとの類似性が指摘されます。

先づ自然が在り、次に人間の生活があり、次に悟性の發明があつた。この自然の順序を轉倒してはならぬ、といふのがベルグソンの考へなのだが、これは、量子論から導かれたハイゼンベルクの考へと同じ事である。彼に言はせれば、自然は人間より前から在る、といふ事は、古典物理學の理想に照應してゐるし、人間は科學より前から在つたといふ事は、量子論のパラドックスに照應してゐるのである。

第二段落からは、「私たちの持續と事物の持續との相違や對立をどう考へればよいか」といふ問題が取り上げられ、この段落の末には、次の、「要約と結論」からの文章が置かれてゐます。

「純粹知覺と純粹記憶との生きた綜合が、必然的に、その單純な外見のうちに、運動の法外な多樣性を要約してゐる。私達の表象の裡に見られる感覺的性質と、計量的變化として扱はれるこの同じ性質との間には、持續のリズムの相違、内的緊張の相違しかないのである」

ここで、「運動の法外な多樣性を要約してゐる。」とある部分は、田島節夫訳では「莫大な数の瞬間を縮約してゐる。」となつてをり、これが正しいでせう。

第三段落末には、『物質と記憶』第四章からの引用がありますが、最後の一文は、印象的です。

「要するに、知覺するとは、限りなく薄れた存在の巨きな諸期間を、もつと緊張した生の、もつとよく區分けされた若干の諸瞬間に凝結する、つまり非常に長い歴史を要約する事だ。知覺とは不動化を意味する」

第四段落全てを『物質と記憶』第四章からの引用に充てた後、小林秀雄は、第五段落の冒頭で、かう書いてゐます。

實在の變化は深みにある。実在の中に生きるとは、この變化が直接に經驗されてゐるといふ事に他ならず、経験の深みをさぐれば、私達は実在の内部に入り込める。誰にでも可能な、名づけ難い質的変化の内觀が、これを證してゐる。この本源的経験の發展を辿る事が、ベルグソンにとつては、精神と物質との關係を、本質的な困難に出會はずに説明出來る唯一の道であつた。この道を行く爲に、緊張(tension)と弛緩(extension)といふ言葉が選ばれた。

ここで、"extension" を「弛緩」と訳すことには、異論があり得るでせう。この言葉は"tension"「緊張」と同じ根を持つ言葉で、ベルクソンも両者を関連づけて用ゐてゐますが、田島節夫訳では「ひろがり」といふ訳語が使はれてをり、この方が適当だと思ひます。次の文を見ると、この言葉の使はれ方が、はつきりするのでないでせうか。

Or, si toute perception concrète, si courte qu'on la suppose, est déjà la synthèse, par la mémoire, d'une infinité de « perceptions pures » qui se succèdent, ne doit on pas penser que l'hétérogeneité des qualités sensibles tient à leur contraction dans notre mémoire, l'homogénéité relative des changements objectifs à leur relâchement naturel ? Et l'intervalle de la quantité à la qualité ne pourrait-il pas alors être diminué par des considérations de tension, comme par celles d'extension la distance de l'étendu à l'inétendu ?
(MM p.203)
さてもしすべての具体的知覚が、どんなに短い場合を仮定しても、すでに相継起する無数の「純粋知覚」の記憶力による綜合であるとすれば、感覚的諸性質の異質性は、私たちの記憶作用におけるそれらの収縮に由来するものではなかろうか。そうすると量と質との隔たりは、ひろがりの考察が延長物と非延長物の距離をせばめたのと同じように、緊張の考察によってせばめられうるのではなかろうか。
(田島節夫訳、204頁)

このベルクソンの考へについて、小林秀雄は、第七段落で、かう述べてゐます。

さう見ると、内界外界、或は主觀客觀の區別や統一の問題は、空間に關係するよりもむしろ時間に關係する問題と考へねばならない。

最後の段落の次の文も、注目すべきものでせう。

たゞ、注意すべきは、さういふ、各瞬間が、それに先立つ瞬間から數學的に導かれる嚴密な必然性が、物質の持續の眞相であるとは、ベルグソンは斷言してゐない事である。

ベルクソンの考へでは、物質と自由や生命との間に断絶はないことに注意を促してゐるのだと思はれます。シュヴァリエは『ベルクソンとの対話』で、ベルクソンの言葉を、かう書きとめてゐます。(1928年7月15日。1930年3月24日の対話にも、同じ趣旨の発言があります。)

La matière et la vie: La première est une tendence vers, ou plutôt un résidu de, la seconde.
物質と生命:前者は、後者への傾向、といふよりも、後者の残渣である。

小林秀雄は、この章を、そして、第四十九章から展開されてきた、ベルクソンの理論と量子力学との関係に関する議論を、次の文章で締め括つてゐます。

豫言は的中したと言つても過言ではない。少くともかうは言へるだらう。ベルグソンの物質理論は、彼のメタフィジックのほんの一部を成すものだが、彼が、自分の仕事を、ポジティヴィスム・メタフィジックと呼んだ眞意は、今日のフィジックが明らかにした筈だ、と。

「ポジティヴィスム・メタフィジック」といふ言葉は、調べた限りでは、ベルクソンの著作には出て来ません。『思想と動くもの』に収められた「形而上学入門」には、次の文がありますが、かうした部分を踏まへて、この言葉を使つてゐるのかも知れません。

Une philosophie véritablement intuitive réaliserait l'union tant désirée de la métaphysique et de la science. En même temps qu'elle constituerait la métaphysique en science positive, − je veux dire progressive et indéfiniment perfectible, − elle amènerait les sciences positives proprement dites à prendre conscience de leur portée véritable, souvent très supérieure à ce qu'elles s'imaginent.
(PM p.216-)
本当に直観的な哲学ならば、あれほど望まれていた哲学と科学との結合を実現する。それは哲学を実証科学 − という意味は前進的で無際限に完成されていく科学 − として樹立すると同時に、本来の意味における実証科学にそれらのもっている本当の意味、これらが考えているよりはしばしばきわめて高い意義の自覚を促す。
(河野与一訳、岩波文庫版 298頁~)

第五十六章

この章で、『物質と記憶』についての記述は一段落し、新しい話題へと進むやうに見えるのですが、それは書かれないで終はりました。

小林秀雄は、最初の二つの段落で、『物質と記憶』の第四章と「結論と要約」の内容を、自由の問題の観点から整理し、最後に『物質と記憶』の末尾の文章を引用してゐます。

自由は、常に、必然性のうちに深く根を下し、これと緊密に組織されてゐるやうに思はれる。精神は、知覺を物質から借り受け、自己の養分を、そこから引出すのだが、自由の印を押した運動の形で、知覺を物質に返却する

第三段落からは、ベルクソンの二元論の性格が論じられます。第五段落では、小林秀雄の考へる「ベルグソンの眞意」を、以下のやうに述べてゐます。

自分にとつては二元論とは言葉ではない。二元論で、實際に事が巧く運ぶのを見れば、二元論の惹起する理論的困難は、二元論といふ言葉に由來するに過ぎぬ事を、諸君は合點するであらう

第六段落では、「實在は、直接的經驗に、二つの面を見せてゐる」といふことについて、「哲学的直観」の文章を引用しながら、論じてゐます。この部分は、第五章でも引用されてゐた部分で、その時にも述べたのですが、小林秀雄の読み方には、一部、誤りがあると思はれます。そのために、訳にも少し無理が来てゐるやうに見えます。

それなら、この深化の方向をどこまでも辿つて行けば、物質も生命も、要するに實在一般は、いよいよ明らかになるか。

と訳されてゐる部分は、原文では以下のように書かれてゐます。

En sondant ainsi sa propre profondeur, pénètre-t-elle plus avant dans l'intérieur de la matière, de la vie, de la réalité en général ?

そのまま訳せば、次のやうになるでせう。

かうして意識は、自らの深みをさぐることで、物質の内部、生命の内部、実在一般の内部の、さらに奥へと分け入るのだらうか。

ベルクソンは、「どこまでも」とも、「明らかになる」とも言つてゐません。より内部へと分け入るといふのは、物質、生命、実在一般の真相について、一段と深い経験を得ることを意味するのでせうから、それを「明らかになる」と訳すことは、誤訳とまでは言へないかも知れませんが、小林秀雄は、この文章を、かうした行ひの可能性を否定したものだと取つたために、それが無理であることを強調しようとして、上のやうな言葉を使つたのではないかといふ気がします。

最後の段落に、次の一文があります。

こゝで、又、ベルグソンの二元的な物の見方の意味を取上げるのは、彼が、哲學者として、科學をどう考へてゐたかといふ問題に緊密に繋つてゐるからだ。

これを読むと、これに続く部分では、ベルクソンの科学論について述べようとしてゐたのではないか、といふ推測が浮かんできます。具体的には、第四十九章で予告されてゐた「アインシュタインの「特殊相對性理論」に關するベルグソンの誤解」や「自著「持續と同時性」の絶版」へと話を進めようとしてゐたのではないか。いづれにせよ、確かめる術はないのですが。


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