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第1章 感覺による認識の中にある予想

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題が示すとほり、ここでアランは認識の中には予想が含まれてゐることを主張します。

物の知覺に於てはすべてが豫想だといふ事で、手短かに結んでおいた方がいゝ。
とまで言ひます。それを地平線や骰子の例で示し、
水平線の遠さといふものは、色々な物のなかの或る物ではない。色々な物と僕との関係だ。まあ何と名付けようが勝手だが、考へられた、結論された、判斷された関係だ。こゝに僕等の認識の形式と内容との重要な區別が現れて來る。
と結論するのですが、ここらの具体的な例は、やはり本文をじつくりと読んで頂きたいと思ひます。感覚は単なる受動的な作用ではなく、私達の(つまりは精神の)積極的な関与があつて初めて成立してゐることを実感できるのではないでせうか。

今回も、小林訳で読む場合に、読みにくいところについて注釈しておきます。まづ第1段落ですが、ここには抜けがあります。5行目の「騎士がやつて來ると思ふといふ樣な、誰でも抱く豫想といふもの、」の後ろに、「これは物の形を取ることはない」 elles n'ont jamais forme d'objet. といふ文が落ちてゐます。

第4段落の真中あたり、

て、これも明らかな事だが、骰子は硬くて立方體をしてゐる、それと同時に何處も白く、黒い點々がついてゐるといふ僕の感覺を、與へられた一つの事實として、僕に判然と納得させるわけにはいかない。
といふ文がありますが、これは、
それに、この立方体で硬い骰子の、全ての面は白で黒い印がついてゐることが、私の感覚に与へられた事実だと言へないのは、十分に明らかだ。
と訳した方が原文に近いでせう。

同じ段落の最後にあるプラトンの「テエエテエト」はフランス語をそのまま読んだので、普通は「テアイテトス」です。ここで言及されてゐる質問は、岩波文庫版では144ページ(185C)に出て来ます。

第5段落の最後から3行目

先刻の風景を見る話にしても、理智的な精神が知らず識らずに骨を折つてゐるのではあるまいか、といふ事になる。
とある文は、
景色の例に戻れば、どんなに真つ当な人物でも、思つてゐる以上に、自分というものをそこに混ぜ込んでゐる。
とでも訳すべきところです。

最後の段落の後ろから4行目

抽象的な用語を使つて、高級な定義を下してゐる哲學上の認識の例をここに舉げようと思へば舉げられる。
といふ文は、
これは、先に抽象的言葉で定義した哲学による知識の例だ。
といふのが原文の意味です。

はつきり言つて小林訳には、誤訳といふべきものが散見されます。かうした例から、私は小林秀雄の仏語力は必ずしも高くなかつたと思つてゐます。他方で、小林秀雄の方が、私などより百倍も千倍もヴァレリーを理解してゐたことも疑ひのないところです。それは何故か。人はどうすれば正しい理解に達することができるのか。アランの『八十一章』は、そんな問にも答へて呉れると思つてゐます。暫くお付き合ひください。


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