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第1章 感覚による知識に含まれる予測について

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景色は物(objet)として姿を現し、私達はその印が心に押し付けられるのを受け入れるしかなくて、それを変へることはできないのだと、誰もが素朴に考へる。普通の見方では、目の前に広がる宇宙の中に存在しない何かを見るのは、狂者と、遊び心で物の世界に自分たちの想像の産物を織り交ぜる芸術家、中でも言葉を使ふ芸術家だけだ。彼らに騙される者はゐない。例へば蹄の音を聞いただけで馬上の人を待ちうけるといつた、誰もがする予測は、物の形をしてゐない。そこからの光が目に届かない限り、馬は見えない。馬を想像すると言ふときには、せいぜいぼんやりと思ひ描くだけで、ゆるぎない形にはできない。これが知覚についての素朴な考へである。

しかし、この例だけをとつても、批判(critique)が可能だ。霧で視界がさへぎられ、あるいは日が暮れて、馬に少し似た何かの形がぼんやりと見えると、実際にはさうではないのに、確かに馬を見たと言はないだらうか。ここでは、予期が、その当否はともかく、物の見かけを持つことがある。その場合、感じたものが変化を受けたのではないか、言葉が原因で過ちを犯しただけではないか、といつた議論はやめよう。それよりここでは大まかに、物の知覚では全てが予期だと言ふ方が良い。

よく調べてみよう。あの遠い地平線は遠いと見えるのではない。その色、そこに見える物の相対的な大きさ、細かいところのぼやけ具合から、また、間にある他の物がその一部を隠すので、私がさう判断するのだ。私がここで判断を下してゐることは、画家がカンバスの上で見かけを真似ることにより私に遠い山の感じを与へるのでも分かる。しかし、私にはあそこのあの地平線が近くにある樹と同様にはつきりと見える。そして、かうしたすべての距離を感じる。この距離といふ枠組みがなかつたときに景色がどう見えるか、私には何も言へない。多分、目に映るぼんやりとした明かりのやうなものだろう。先に進まう。このメダルの凹凸は、陰影ではつきりと感じられるのだが、私にはそれが見えるのではない。子供は輪郭や色を解釈しながらものを見ることを学ぶのだと誰でも見当がつくだらう。鐘の音が遠く、あの方向から聞こえるわけではないのは、もつと明らかだらう。

触覚は我々の教師であり、何らの解釈なく純粋で単純に何かを伝へると、よく言はれるが、全く違ふ。ここにあるサイコロは立方体として私の手に触れるのではない。違ふ。私は次々とその稜線や角に、硬く滑らかな平面に触れ、これらの見かけをひとつの物体に纏め上げて、この物体が立方体だと判断するのだ。他の例で練習して見たまへ。この分析で多くのことが分かる。最初の数歩をしつかりと歩み出すことが肝心だ。それに、この立方体で硬いサイコロの、全ての面は白で黒い印がついてゐることが、私の感覚に与へられた事実だと言へないのは、十分に明らかだ。全ての方向から同時に見ることは出来ないし、一時に見える面がどれも同じ色をしてゐることはない。同時に全ての面を同じ大きさで見ることも出来ない。それでも、私が見るのは立方体で、面は同形で同じ白さだ。私が触れてゐるのと見てゐるのは同じ物だ。プラトンは「テアイテトス」の中で、異なる感覚による知覚が一つの物に因ることを、どの感覚によつて知るのかといふ問ひを発してゐる。

サイコロに戻らう。私は一つの面に六つの黒い印があることを見留(みと)める。これが悟性(智慧)(entendement)の働きで、感覚がその材料を提供するのだといふことは、難しくないだらう。この黒い印を順に眺めて、それぞれの順番と場所を心に留め、さうして、最初は多少苦労しながら、それが六つあるのだといふ考へに至る。つまり、二つが三つ、五つと一つだ。この数へるといふ動きと、手や目に次々と現れるものから立方体が知られるのだと認める動きとが、似てゐるのが分かるだらうか。ここから、感覚がすでに悟性の働きだといふことが分かる。景色の例に戻れば、どんなに真つ当な人物でも、思つてゐる以上に、自分といふものをそこに混ぜ込んでゐる。なぜなら、この地平線までの距離といふのも、言葉にはしてゐなくても、判断し結論付けられたものだからだ。これで、最初に述べた素朴な見方には気が許せなくなる。

もう少し詳しく見よう。この地平線までの距離は、数ある物のうちの一つの物なのではない。物と私の関係だ。考へられ、結論として出され、判断された関係なのだ。これにより私たちの知識の形式と内容とを区別する重要性が浮かんでくる。風景やその他全ての対象は、これを支える秩序と諸関係により決定され、現実の、しつかりした、本当のものになる。かうした諸関係や秩序は形式であり、考へるといふ作用を明らかにする。狂人や興奮した人といふのは、自らの誤つた判断を物の中に見て、それを現存する確かなものだと受け取る人たちなのだ、と分からぬ者はあるまい。これは、緒言で抽象的に述べた哲学による知識の例だ。最初の一歩から、我々の進む目的地がはつきりと見える。これが、哲学的な研究と、この美しい名前を欲しがる空疎な議論の違ひだ。


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