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第2章 感覚の誤りについて

注釈へ


感覚によつて知る場合に、物の距離、大きさ、形を見誤ることがある。大抵、私達の判断の係はりが明確なので、経験を元にそれを修正する。かういふ場合、私達の悟性ははつきりと目覚めてゐる。錯覚(illusions)が見誤りと違つてゐるのは、判断が表に出てをらず、物の見え方自体が変はつたと映るといふ点だ。例へば、上手に描かれた風景を見ると、物と同じやうに距離や奥行きを感じ取れると思ふ。画面が私達の見る前で凹むのだ。また、私達はいつも、錯覚を私達の感覚の欠陥だと考へたがる。眼や耳がそんな具合の出来なのだといふ様に。悟性の働きや、さらには私達に物の形で現れる判断を、大抵の錯覚の中に認め、その他の錯覚の中に探り出すことができれば、哲学の知識で大きな一歩を踏み出すことになる。ここでは簡単な例をいくつか説明して、後はヘルムホルツの「生理的光学」を読んで貰はう。そこには考へる材料がたくさん見つかる。

私が重いものを手に感じるときには、確かにその重さが働いてをり、私の意見では何も変はらないやうに見える。だが、ここに驚くべき錯覚がある。誰かに同じ重さだが大きさが随分違う物、例へば鉛の玉、木のサイコロ、ダンボールの大きな箱を持たせると、いつでも一番大きいのが一番軽いと言ふ。同じ性質の物、例へば太さは違ふが重さは等しい真鍮の管でやると、この効果は更にはつきりする。物を輪と鉤でぶら下げても錯覚は残るが、この場合目隠しをすると錯覚は消える。これを錯覚と呼ぶのは正しい。想像上の重さの違ひは熱さや冷たさと同じやうにはつきりと指先に感じられるのだから。しかし、私の説明した状況から、この評価の誤りが悟性に対して仕掛けられた罠によるものであるのは明らかだ。と言ふのも、普通は一番大きな物が一番重いので、私達は、見かけで一番大きな物が一番重いものと予想する。実際の印象はさうではないので、最初の判断に戻り、予想ほど重くないと感じることから、その他の物よりも軽いと判断して、最終的にさう感じるのだ。この例から、他との関係や比較も感じ取ること、また、この例では外れたのだが、予期が物の形を取ることが分かる。

同じやうに簡単によく知られた眼の錯覚を分析できる。中でも、そのために描かれた図で、遠くと近くの街灯と人間が全く同じ大きさなのだが、私達には実際に測つてみないとそれが信じられない、あの図(脚注 1)を取り上げよう。ここでも、対象を大きくするのは判断力である。だが、より注意深く調べよう。対象は全く変化しない。といふのは、対象自体は大きさを持たないからだ。大きさは常に比較から生まれる。だからこの二つの物の大きさ、そして全てのものの大きさは、分けることの出来ない、実際には部分を持たない一つの纏まりなのだ。それぞれの大きさは一緒に判断される。ここから、個々に分かれてゐて部分から成る物質としての物と、分けることの出来ない物についての考へ(pensée)とを混同してはならないのが分かる。この区別が今は曖昧で、いつまでも考へる難しさが残るとしても、この機会に覚えて置き給へ。ある意味では、つまり物質として捉へると、物は部分に分けられ、一方は他方ではない。しかし、別の意味では、即ち考へとして捉へると、物の感覚は不可分で、部分を持たない。この一体性が形の上のものであるのは言ふまでもない。先回りをしてゐるのではない。私達は早くもここで空間と呼ばれるものについて簡単な最初の説明をしなければならないのだ。幾何学者たちは悟性(entendement)によりこれについて多くの事を知つてゐるのだが、後で見るやうに感覚的な知識と無縁なわけではない。

この難しい説明を分かりやすくするために、読者にその理論と扱ひをよく復習したうへで立体鏡の例について考へるよう勧めたい。ここでもまた、凹凸が目に飛び込むやうだ。しかし、それは凹凸とは似ても似つかぬ見かけから、即ち、私達のそれぞれの眼に映る同じ物の姿の差から導かれたのだ。かう言へば十分だらう。凹凸を作る私達にとつての距離は、与へられたものではなく、距離として考へられたもので、これが、それぞれのものをその場所に投げ出すのだ。アナクサゴラスの有名な「全ては混沌としていた。しかし悟性がやつてきて、全てを秩序立てたのだ」といふ言葉のやうに。

読者は既に、感覚による知識には科学のやうなところがあると気づいてゐるかもしれない。後で、全ての科学は物をより正確に知覚することにあるのだと理解するだらう。ここでは、感覚の中に悟性を再発見することに努めよう。先では、常に内容(中身)と形式(型)とを峻別しながら、両者を切り離すことはしないで、悟性の中に感覚を見出すことが求められる。難しい仕事なので、これに関する議論好きの演説は無視して良い。いつも少し的外れだし、戦ひはいつもさうだが、訓練の足らない者には、危つかしいので。


脚注
  1. ここで言つてゐるのは、 このやうな図を指すのでせう。 この図で描かれてゐるのは街灯や人ではなく、単なる円柱ですが。


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