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第3章 運動の知覚について

注釈へ


物の運動に関する錯覚は分析が簡単で、良く知られてゐる。例へば、観察者が動き出すだけで物が反対の方向の走り出すやうに思はれる。さらに、物の動きの違ひの効果により、ある物は他のよりも速く走るやうに見える。山の端の月は旅人と同じ方向に走るやうに見えよう。同様の効果で、進む方向に背を向けると、地平線の奥が自分に近づいて来るかと思はれよう。これを観察し、説明して見給へ。それほど難しくはないだらう。だが、これらの例の解釈は、良く知れば知るほど、きはめて難しく、哲学者に必要な精神(esprit)の強い力を試す相手となる。

初学者は以下のやうに考察を進めると良からう。先づ、感じられる実際の運動と、樹々や月に感じる見かけの運動の間には何の違ひもないと考へる。その知覚においては何の違ひもないといふ意味だ。次に、この見かけの運動は関係によつてのみ感じられる点に注意する。これで悟性がここでも働いてゐる事が分かるし、目に映るものを説明するために運動を考へてゐる。これは、言葉は欠けてゐるが、厳密な意味で既に科学の方法である。そして、比較すべき点、動体の次々と変はる位置、変化する距離、これら全てが心に留められ、感じられる運動といふ全体に纏められるのだと分かるだらう。

このやうに、私達が運動を感じるといふことは、動体そのもののやうに常に場所を変へながら、単にそれを追ひかけるのとは全く異なるのだ。鋭いゼノンは、動体は決して運動してゐない、なぜなら各瞬間にそれはまさしくそのある場所にあるからだ、と巧い事を言つた。この類の別の難問については後で述べるが、私達は既に運動が不可分な一体であること、私達がそれを全体として感じ、考へることが分かる。動体はそれぞれの位置を順に占めるとしても、それらの位置全ては同時に捉へられる。かうして、私達が知覚の中で捉へるのは運動といふ事実ではなく、実際はそれについての動かない観念(idée、見方、捉へ方)であり、この観念に基づき運動を捉へるのだ。知識の領分全体を余りの駆け足で申し訳ないが、この分析は分けられないので。

さらに次のことにも注意しよう。私達が数を数へる時にその全体を眺めてやり過ごす一方で全てを心に留めるやうに、運動を感じる時もそれをやり過ごすのだが、予想され保持された道に沿つてやり過ごす。固定された点をつないだ、つまり動かない道に沿つてだ。この点について少し深く考へた者には、運動の形をあれこれ思ひ浮かべながら望みのままに作り出せる錯覚について考へてみるほど有益なことはない。例へば、コルク抜きを回しながら、さう望めば、回転のない軸に沿つた平行移動を感じる。あるいは、軸の方向を逆に決めることで、見かけ上、風車や風力計の回転方向を変へることが出来る。かうして、別の固定点を選べば別の運動が生まれる。相対的運動の考へ方は、言葉のない知識にも現れる。

運動の知覚についてここで述べたことは全て触覚にも、そして特に、視覚の助けの有無を問はず、接触や緊張により得られる、私達自身の運動についての知識にも、当てはまる。ある感覚が色や音を与へるやうに、運動を与へる元の感覚といふ概念(捉へ方)が中身のないものだといふことは簡単に判断できよう。感じられた運動に至るのは、常に考へられた運動を通じてだ。そして、運動の一部が運動の一部なのは、運動全体の中においてだ。君達(読者)は、筋肉の感覚に関する良く知られた議論が哲学的知識とは無縁だと、直ちに結論するかもしれない。実際それは無益な議論で、その理論は後で言語について検討し、それがほとんど思ひ通りに何とでもなる不思議な物なのだと説明するときに、理解できるだらう。


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