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最初の段落で、アランは想像といふ働きは単一の感覚だけに係はるものではなく、つねに全ての感覚がそれに関与してゐることを強調します。小林訳で
幽靈が何處に立つてゐるか、どう身を動かせば幽靈に觸れる事が出來るか、それが見えないで、幽靈を想像するとは意味がないだらう。
とある部分もそのことが言ひたいので、
幽霊を想像するとは、ある場所にそれを見て、どう動けばそれに触れるかを自らに示すことでなくて、何だらう。
と訳した方が、幽霊の想像にも、視覚、触覚などの複数の感覚が係はつてゐるといふ趣旨が分かりやすいでせう。その直ぐ後にある「昔の哲學者」は philosophes d'occasion の訳ですが、<俄か哲学者>といふ感じではないかと思ひます。
この注意をしておいてから、第2段落からは個別の感覚による想像について述べてゐます。
第3段落の後半は、アランのアランらしいところですが、同意されない方もあるのではないでせうか。
僕の意見では、視覺による一切の影像は、影像の性質上、僕の外部にある、影像自體の外部にある。僕が夢のなかで散歩してゐる森は、僕の身體のなかにはない。僕の身體が森のなかにあるのだ。では魂の眼をどう始末すると言ふかも知れないが、魂の眼とは即ち僕の眼だ。
第5章「刺激」でもアランは生理学者のいふ刺激と我々が感じる刺激とを峻別してゐましたが、ここでも同じ考へが働いてゐると感じます。ちなみに、ここで魂と訳されてゐるのは âme です。esprit よりもこちらの方が魂といふ言葉の意味に近いと言へるでせう。âme は語源的にはラテン語の anima から来た言葉の様です。
細かな点ですが、第5段落の始めの方にある
眼をぱちぱちさせれば、説明の役を引受けるいろいろな影像が現れ、それを見て、僕等は事の真僞を確かめる。
といふ部分は、
瞬きが補色の像を蘇らせるのは、誰でも確かめられるとほりだ。
といふのが原文の意味です。
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