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第11章 觀念の聯合

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この章でアランは、観念の連合と言はれるものが、どうして生まれるかを説いてゐます。観念が物のやうにあり、その間に力学的な力が働いて甲から乙を連想する、かういつた機械的な見方を排し、実際の観念の連合がどのやうに生じるかを、個別に明かさうといふ姿勢がはつきりと見えます。

小林訳の第1段落に

僕等の知覺はめいめいで素早い調査を行ひ、間違つた不安定な足場を築く、そこへ元來がうかうかとした言葉といふものが一種の斷案を下す。

といふ部分があります。ここの原文は、多分、次のやうな意味だと思ひます。

かうして私達の知覚の一つづつが、素早い探求、間違ひや検討違ひの知覚の仮足場の終着駅だ。かうした知覚には言葉が、絶え間無く働いて、ある種の正確さを与へる。

「かうした知覚」が指してゐるのは、終着駅としての知覚なのか、間違ひや検討違ひの知覚なのか、良く分かりませんが、私は後者だと解してゐます。言葉の働きで、間違つた知覚が固まつてしまふといふ現象を念頭に置いた文だと考へたからです。

同じ段落に

室に閉ぢ籠つて金を勘定する樣な具合に、僕等の諸觀念は、僕等の精神のなかに連續してゐると考へるのが、間違ひの始りなのである。

といふ文章がありますが、この譬へは分り難いかもしれません。外界の刺激とは無関係に、頭の中だけの操作で諸観念の連想が起こるのではないといふことを強調したいのだと思ひます。

第3、第4段落の言葉や記憶についての議論は、おもしろいと思ひました。精神分析では、言ひ間違ひは深層心理の成せる業だと言ふでせうが、アランは主な原因が二つあるとして、いづれも身体的な理由を挙げてゐます。アランは精神分析を認めてゐませんでした。諸観念の順序が、まるで無稽なものに思はれて来るのは、途中を忘れてしまふからだといふ話では、座禅の修行か何かに、自分の頭に浮かぶ考への筋道を逆に辿る訓練があることを思ひ出しました。

第5段落に

かういふ地理的な調査には、人が考へる以上の觀念が含まれてゐるものだが、連續といふ秩序は、明らかに學問上の發見で、これは先に述べよう。

といふ文がありますが、ここで観念と訳されてゐるのは pensées です。

パスカルの「パンセ」は随想録などと訳されることがありますが、考へる、思ふといふ動詞から来てゐる言葉です。デカルトのコギトの仏訳でも、我思ふの部分には、この動詞が使われてゐます。また、「學問上の發見」といふのは、やや大袈裟な言ひ方ですが、科学的に見出されるものだ、といふことです。

これに続く部分で、

記憶といふものには確かに自動人形の樣なところがあるが、一般に考へてゐるほどのものではない、行爲にしてもさうだ、といふのはつまり言葉にしてもさうだ。

とあります。後半の部分は、(自動人形に様なところがあるとしても、それは)常に活動のなかでのこと、つまり言葉のなかでのことである、といふのが原文の趣旨だと思ひます。


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