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第11章 考への結びつき(連想)について

注釈へ

我々の考への続き具合は、普通、我々に姿を見せる客体により決められる。だが、既に見たやうに、この客体は数々の試み、下描き、仮定(仮置き)のあとで初めて感じ取られる。私は初め、あそこの男は郵便配達だと思つた。この車は肉屋ので、風の中の葉は鳥だと思つた。かうして私の知覚の一つづつが、素早い探求、間違ひや検討違ひの知覚の仮足場の終着駅だ。かうした知覚には言葉が、絶え間無く働いて、ある種の正確さを与へる。従つて、一つの客体について、私は自然に、それに似た数多くの別の客体を思ふ。それらの形で私の印象を何とか説明できるといふ意味で。著作者達が類似性による連想だと考へる思ひ起こしの大半は、源をそこに探すべきだ。ここでの誤りは、しっかりと閉ざされた部屋に閉ぢこもり宝物を数へるやうに、我々の考へが心の中で繋がつてゐると考へることだ。現実には、考へるとは感じ取ることで、いつもさうだ。夢見ることさへ、感じ取ることだ、(つたな)いやり方でではあるが。この問題に就いての著作者達の安易で、しばしば純粋に議論のためだけの思索を正さうとすれば、この道しるべとなる考へをしつかり掴むことが大切だ。

我々は感覚の疲れで、黄の後の紫のやうに、補完的な物の姿を感じ取ることがある。この種の例はかなり稀だ。しかし、少し強い刺激(impression)で我々はある種の働き(action)に鈍感になり、その結果、他のものに気づきやすくなるといふことが、常に、我々の感覚の全てで起こると考へるのは自然だ。多分かうして、対比による連想とされるものの多くが説明できる。ある旅行者は、アルジェリアの砂漠に疲れた眼を閉じると、ノルウェーの月夜の景色を思つたと私に語つた。

最後に、言葉はその自動的な流れにより、我々の考へのなかで知覚以外の物すべてを整へてゐる、と見る必要がある。それに、これもまた知覚(感じ取り)なのだ。我々は自分の言葉も感じ取るので。ところで、我々はある言葉のつもりで別のを言ふことがよくあるが、この失敗の原因は主に二つある。まづ、待ち受けられてゐる言葉に似てゐるが、より発音し易い言葉へと滑つて行く。これもまた、ある種の類似による連想だ。次ぎに、言葉の器官が曲げや緊張に疲れて、なにか休まる状態へと自分で落ちていく。そこで、我々の思索に一つだけではない不思議な断絶が起きる。

だが、かうも言つておかう。我々はしばしば考えの糸を見失ひ、最初の考へからはるか遠くにゐて、どの道でそこから外れたのか思ひ出せない。我々の考への続き具合が気まぐれに見えるのは、大抵、忘れる所為(せい)だ。

いはゆる近接による連想はといふと、空間の内でも時間の内でも、素早い記憶の結果であり、これも完全な記憶の研究により初めて説明されるだらう。私はある大聖堂を考へて、隣の花屋を思はずにはゐられない。いいだらう。しかし、同様に私は古い家々や街やそこに通じる道も思ふ。そしてかうした地勢図の見直しには、思つた以上のものが含まれてゐる。だが、特に続きの順序が、明らかに科学によつて見出されるのは、後で述べるとほりだ。たしかに記憶には自動機械のやうなところがあるが、人がさう言ひたがる程ではなく、常に活動のなかでのこと、つまり言葉のなかでのことである。この注意は、考へや心像が画面に次々に現れる不変の項目であると取る観念論的な組み立てに対して、読者の警戒を促すためだ。この考への機械仕掛けが子供じみてゐるのは、記憶を学ぶ時にすつかり分かるだらう。

この有名な連想の法則が何も説明しない、といふことを付け加えておかう。オレンジが地球を思はせるといふことは、類似では全く説明されない。オレンジはリンゴやボールに、あるいは別のオレンジにもつと似てゐるのだから。この例では、連想とされるものは、天文学の授業を素早く思ひ出しただけなのは明らかで、そこでは皮の凸凹を我等が地球の山々の高さに比べるのだ。だから、ここで想像を運んでゐるのは類推であり、つまりは真の考へであるのだ。


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