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第12章 記憶について

注釈へ

感じ取る(知覚する)(percevoir)とはいつでも自らに示す(se représenter)といふことだ。だから私達のどんなに単純な知覚の中にも、表に現れない記憶とでも呼ぶべきものがある。私達の全ての経験が、一つ一つの経験の中に集まつてゐる。眼で並木のある小道を感じ取るとは、この道や他の道を通つたこと、木々に触れたこと、影や物の見え方(perspective)の戯れを理解した事などを思ひ出すといふことだ。そして、例へば影は太陽次第であり、太陽を感じ取ること(これはいつも間接的だ)にも多数の経験が含まれるので、一つ一つの経験には全ての経験が集められてゐると言ふのだ。

しかし、この指摘自体から、ここで問題なのは正しい意味での思ひ出ではなく、表に現れない記憶であることが理解できる。この並木の小道を正しく感じ取るために、私がしたある散歩を思ふ必要はなく、まして、過去のある時点の散歩を思ふ必要があるわけではない。現在や近い未来を照らし出すだけで、私達の前に過去を繰り広げることの決してない、この記憶を、働き者の記憶と呼べるだらう。そして、逆に現在を契機に放浪者のやうに年月を遡り私達を影の国へと連れて行くのを、夢見る記憶と呼べよう。そしてこの夢見る方が私達から完全に離れ去る時はない。ともかく、表に現れないものも含め何らの記憶を持たない新しい存在には、距離を推し量り、頭の中で物を一巡りし、探り当てることはもとより、私達のやうに見たり聞いたり触れたりすることもできないだらう。従つて、記憶は切り離された機能ではないし、切り離すことも出来ない。

過去や未来に全く思ひ至らないといふことも不可能だ。何故なら、どんな物を感じ取るのにも千の記憶が閉ぢ込められてゐるのだとすれば、その物が他の諸物の間にあるものとして考へられてゐるのも事実であり、四方八方に延びる無数の道の交叉点だとも言へ、多少とも近くだが今ここにはない諸物について考へることを前提としてゐる。これは、同時に引き留めたり突き放したりするやうな独特の関係により、既にあるやり方で時間といふものを限定する。同じ物があつたりなかつたりする。より上手い言ひ方をするなら、その物は無いのだが、ある時間の条件の下では有るのだ。例へば、私の後の町だが、私は30分でそこにゐることが出来る。

だが、これでも言ひ方が足りない。これは可能な時間でしかない。現実の時間はどんな些細な知覚にも現れる。何故なら、私がある物や場所を感じ取る時には、そこに行くためにたどつた道を、例へばそこに目を遣つて、思ひ起こす(se représenter)ことが前提となるからだ。かうして私の過去、少なくとも最も近い過去は、いつでも(しばら)く保存されてゐて、これが無いと私は自分がどこにゐるかも全く分からなくなるだらう。ちやうど旅の後で目覚めた人のやうに。私にとつては常にその前に他の何かがあつた。常に空間は時間に結びついてゐる。単に遠近の関係により抽象的にさうなのではなく、実際の経験の中で結びついてゐるのだ。位置、通過、運動や時間は、実際に分けることが出来ない。このことを理解するのは難しくない。どこに居るかを知るとは、どこから来たかを知ることだ。諸物の間にある数々の可能な道筋の中で自分の道が分かることだ。未来は、私達にとつて、ある意味で常にここにあるとさへ言へよう。何故なら、私と地平線に有る町とを隔てる距離とは、可能な一つの未来でなくて何だらう。

かうして空間の大きさは時間の関係無くしてはありえない。現実であるとともに可能なものとしての時間、つまりその可能性が位置の形で実際に考へられた時間だ。それに、前(まへ)、後(あと)といふ言葉が空間も限定することは明らかだ。私がこれを強調するのは、著作家達がこれらを切り離すことが多すぎるからだ。時間は私達の考への秩序であり、空間は物の秩序であるといふ風に。だが、上に十分に示したやうに、考へと物とは一緒だ。もつと野蛮な言葉を使へば、外側でしかない外側は誰にとつても外側ではなくなる。内側の関係も必要であり、それによつて近くと遠くが不可分の宇宙を作るのだ。それに、かうしたことは「純粋理性批判」に、私が判断できる限りでは誤り無く、書かれてゐる。ただ、全体を注意深く読まねばならない。見習ひ哲学者への私の忠告だ。


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