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第13章 体の中の痕跡について

注釈へ

私は、遠く離れたアミアンの大聖堂を思ふ。私にはそれが目に見えるやうに思はれる。他のどこを探すでもなく、自分の中に建て直す。私が感じ取つた諸物の何らかの痕跡を自分の中に持つてゐないとすれば、かうした思ひ出を組み立て直すことができないのは明らかだ。そして私はこの生きた身体をどこへでも一緒に連れて行き、この身体はいつでもそれと分かつて、また急激な変化には耐へられないものなので、私の感じ取つたことの一種の印を、指輪が蝋に残すもののやうに保つてゐるのは、私の身体のどこかなのだと考へるのは自然なことだ。この比喩で昔の著作家達には十分だつた。プラトンのやうな人は、身体の状態や動きを知覚や考へと区別することを十分に学んでゐたので、それに(だま)されなかつたのは確かだ。

しかし、その後、体の構造に関するより精密な知識によつて、比喩が真実の姿を取らうとした。そしてこれは哲学者が注意を向けるべき点の一つである。まづ、これまでのことを十分に理解したなら、素朴なエピクロス主義者達の小さなあるかたち(images)の様なものが、感覚から入つて脳の柔らかく可塑的部分に刻まれるのは、受け付けようとはしないだらう。しかし、この点で真に考察すべきなのは、神経にそつて、あるいは脳の中で何が起こるかがよく分かつてゐないといふことではない。それは、前提とされてゐる脳、神経、経路、そして物理的環境や物自体が、数ある知覚の中の一つであり、他のものと同様、切り離すことが出来ず、諸関係、いろいろな距離、相互に外側に有る部分部分を用ゐて考へられてゐるといふ点だ。そして脳は、このあるかたちの中では、世界の一部でしかなく、全てを含むことは出来ない。別の言ひ方をすれば、脳の中には脳の部分しかなく、そこに刻まれるのはこれらの部分の形や動きだけだ。

それに、考へる人は、その印象や思ひ出をもとに世界を考へる時に、この形や動きを全く知らない。私にとつて考へとは私の考へだけだ。その他全ては物だ。そして、全てを言へば、どれほど膨らませた脳髄の中でも、人は脳しか考へず、宇宙の他のものを考へることはない。この種の指摘により、精神がその仕事の中に姿を現す。その仕事と一体となり、組織者として、昔の人にとつての神のやうに、この世界の創造者として。

この原則は真の哲学者には十分に知られてゐる。しかし、記憶を扱ふ時には、それを忘れることが多すぎる。だから、体の中で保存されるものは何か、どんな種類の痕跡か、どんな効果があるかを言はう。生きてゐる体は、第一に、その形とそれを取り巻く抵抗とによつて自らを動かすといふ性質がある。さらに、生きてゐる体は、自らを動かすことを学ぶ。ここでは多分二つの事を区別する必要がある。筋肉への栄養供給は、訓練によつて刺激され、関連する筋肉の形を変へて、それがしばしばさせられた運動が容易になるやうにする。これが、人が十分に注意を払はない真の痕跡だ。さて、さらに、より眼には見えにくいが、神経、中枢、脳により引かれたより簡単な道を仮定することができる。ある刺激(impression)の後で、ある筋肉がほかのよりも強く刺激されるといふやうに。これが生きてゐる体ができることの全て、保存する事のできるすべてだ。

これが些細なものでないのは、職人、体操選手や音楽家の機械的な能力で分かるとほりだし、これが人が思ふよりも柔軟で、意図的な注意によつて変はるものなのは、他で説明する。これは一つの記憶だとも言へば言へようが、考へを伴はないもので、普通は習慣と呼ばれる。ここではこれ以上言ふ必要はない。ここには無い、あるいは消えた客体についての知識、正しく記憶と呼ばれ、より正確で秩序だつてゐるときには思ひ出と呼ばれるものについては、(後で)扱ふので。ただ、かう言つて置かう。体に残された痕跡は行動の痕跡でしかあり得ず、それを繰り返す向きに働く。また、言葉はこの種の活動の一つであり、習慣によつて支配され、思ひ出を維持する現実の客体を絶えず我々の耳に提供する、と。だが、今や本当に難しいこと、時間と継起の知覚についてうまく記述するといふ仕事に取り掛からねばならない。


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