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この章でアランは
腦髓は、その影像に於いて、世界の一部に過ぎない、世界全體をなかに入れる事は出來ない。別言すれば、腦髓のなかには、腦髓の各部があるに過ぎない。
ことを強調してゐます。脳髄の働きが即ち思考なのではない。
僕の考へこそ僕にとつて唯一の考へだ、他はすべて物である。
素朴なエピキュリアン達が考へたやうに、心像が目から入り、脳髄の柔らかな部分に彫り込まれるのではない。それはこれまで述べて来た事から明らかだらうと言ひます。例へば、針金で作つたやうな全ての辺が見える骰子を描いて見る。見方によつて、それは二通りに姿を変へる(第六章「空間」)。その、どちらの像が正しいのか。どちらが脳髄に彫りこまれるのか。
また、我々の知覚には記憶が影響を与へる。
物とは、分割出來ない諸關係の組織のうちに成立してゐるもので、また別言すれば、考へられるもので、感じられるものではない。(第八章「物」)
生理学の目標は、生命現象の物理化学的な仕組みを解明することでせう。当然の前提として、その物理化学的な仕組みで精神の働きも説明できると考へます。さうでないと、研究する意味がない。しかし、アランにとつては、さうして説明されるのは、物としての脳髄であり、私の考へではない。
科学技術の発達に伴う唯物論的な傾向にどう立ち向かふかが19世紀末から20世紀初め哲学者達の課題であつたと思ひます。ベルクソンは、科学の方法を取りこみながら、記憶が脳の働きとしては説明し切れないことを示さうとします。アランの場合には、信条として、あるいは精神を考へる当然の前提として、その独立を議論の最初に置いてゐる、私はさう感じてゐます。
小林訳を読んで気づいたことを、付記します。
第1段落、「見知りごしの身體」といふのは、おもしろい言ひ方です。原文では ce corps vivant, toujours reconnaissable とあり、直訳すれば<いつでもそれと分かる、この生きた身体>でせうか。
言ふまでもないことかも知れませんが、同じ段落の「蝋が指環の跡型を殘す樣な具合に」とあるのは、西洋で昔、手紙などの封をするのに温めた蝋を垂らし、それに指環型の印鑑で紋章などを押したのを踏まへてゐます。
第1段落の最後に
極言すれば、大きくしたいだけいくらでも大きくなる腦髓のなかでは、腦髓の事しか人は考へられまい、世界の他の物は何一つ考へられまい。
とあるのは、
要するに、どれほど膨らませた脳髄の中にも、人は脳しか考へず、宇宙の他のものを考へることはない。
と訳す方が正確でせう。脳髄の中で考へてゐるのではなく、その中身を考へてゐるのです。
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