ホーム >  小林訳注釈 目次 >  第1部 目次 >  第17章

第17章 主觀的なものと客觀的なもの

翻訳へ

第一部は「感覺による認識」を扱ひました。外の世界は感覚によつて知られるのですが、それは蝋に跡が残るやうに我々の脳に刻まれるのではなく、我々の主体的な判断がそこで大きな役割を果たしてゐる、アランが第一部で強調したのは、このことでした。他方で、世界がないと主体は眠りに落ちる。その両者の関係が、この章でも確認されます。

今回も、細かな訳語の話になりさうですが、お付き合ひください。第1段落の初めの方に「實際に提供された秩序ある世界」といふ部分がありますが、原文では cet univers en ordre, représenté, véritable とあり、représenté は直訳すれば「表現された」です。

その少し後に、

僕等の空想や夢から髑髏どくろをでつち上げる言語といふもの

といふ部分は、

僕等の空想や夢の骨格を成す言語といふもの

と訳すべきところでせう。

第1段落の最後に「怠惰な感想文」とありますが、essais は、試みとか試験といふ広い意味に取る方が良いと思ひます。

第2段落の半ばの

その考へが既に無學な人の思ひ出を支持してゐるのだ。

は、直訳すれば

一番研究されていない思ひ出でも、この考へが支えてゐるのだ。

です。

その少し後ろにある

ここに記憶の原理があるので、他の凡てはこゝに掛かつてゐる。

の「原理」は principal の訳ですが、原理は principe で、principal は「主なもの」とすべきでせう。

その直ぐ後

僕はこの世によつて自分自身を考へるに過ぎない。
といふのは、
僕が自分のことを考へるのは、世界によつてだけだ。

とも訳せます。同じことかも知れませんが。

カントの定理を説明した部分は、

主觀的な外見を持つた生活から、眞實の物に言はば飛び移る道はないが、反對に、外觀といふものが姿を現すには眞實の物によらなければならない

となつてゐます。

主観的な見かけの生活から、真の客体へと、ある種の飛躍をするには及ばず、逆に見かけは、真の客体によらないと現れないのだ

とする方が分かり易いでせう。

最後の辺りに、かういふ部分があります。

こゝで哲學上の思索は面倒な道にさしかゝるのだが、例によつて深入りはしまい。

直訳すれば、こんな具合でせう。

私はここでも、哲学的な反省といふものを掴まへねばならない難しい地点を示すに止める。

末尾の文に

どうも一般には人を敎へないで驚かすと言つたあんばいに證明され勝ちなものだ。

とあります。物のない考へは規律のない考へであり、判断のない経験では物を掴む事が出来ないといふ二つの真理を聞いて、人は驚くのだが、そこから何も学ばうとはしない、そういふことが言ひたいのだと思ひます。


第16章 < 第17章

ホーム >  小林訳注釈 目次 >  第1部 目次 >  第17章

Copyright (C) 2005-2006 吉原順之