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第16章 時間

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表題は Du Temps となつてをり、単数です。冒頭に

時間といふ樣なものはない。いろいろな時間、つまり各人に親しい時間があるだけだ

とあるのは、最初の時間が単数、「いろいろな時間」と訳された方が複数です。

第1段落に、「例へば、光より速く動いてゐるといふ樣な、觀察者の或る運動に從つて變化する局部的な時間」云々といふ部分があります。これは原文でもこのとほりで、アインシュタインの説では光より速く動く運動はないはずなので、この部分はアランがこの説を誤解してゐたやうです。少なくとも、「最近の物理学者の正確な逆説」としてこの例を挙げるのはをかしいでせう。

第2段落の次の部分は、文法的には原文に忠実な訳に見えますが、意味は通じにくい。

同樣に、變化の或るものは以前起こつただらうし、或るものは以後起こるだらうし、それと同時に僕のうちでも又他の變化がある、そんな事を考へるわけにはいかない。

むしろ、過去でも未来でも、現在におけると同様に、僕の裡の変化と同時に他の物全てが変化するのだ、と肯定に読む方が文意は通るやうに思はれます。

第3段落で「時間の影像」といふ言葉が出てきますが、影像はimage の訳です。訳しにくい言葉で、大和言葉(風)に訳さうとすると、名詞ではなく動詞で、「時間の姿を思ひ描くことはできない」とでもやる他ないでせう。無理にやれば、「思ひ絵」とか「心絵」とかいふ造語を使ふことくらいしか思ひつきません。一般に、日本語は抽象的な名詞を作りにくい言葉のやうです。 (脚注 1)

その後に、

では、時間といふものは全然捕へない事にするか、無論これは間違ひだ、それとも、同時とか先とか後とかいふ純粹な關係によつて時間といふものを捕へるかだ。

といふ文があります。多分、次のやうに訳した方がアランの言いたかつたことに近いでせう。

だから、これはかなりお粗末な間違ひだが、それを完全に逃すか、あるいは、同時、前、後といふ純粋な関係の中でそれを掴むか、しかない。

細かな話ですが、同じ段落にあるポアンカレの逆説で、「粘土ででも作る樣に」とあるのは、「白墨を使つて」の誤りのやうです。

て、結論は、時間も亦空間と同じく、普遍的な經驗の一形式だといふ事だ。この眞理は少しも新しくない、併し、これをよく理解するといふ事が常に新しいのである。

脚注
  1. image の訳語については、小林秀雄が江藤淳との本居宣長をめぐる対談で、かう言つてゐます。(第5次全集第14巻540〜541ページ)
    ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、 余程しっくりとするのだな。
    「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「」に「性質情状アルカタチ」です。 これが「イマージュ」の正訳です。

    ただ、これはあくまでベルグソンが、特に「物質と記憶」の中で使つた image といふ 言葉について言つてゐるので、全てに当てはまる訳ではないかも知れません。ここのアランの文章では、思ひ描かれた時間の姿や像(かたち)を指してゐます。image は動詞 imaginer になると「思ひ描く」といふ意味になるのですが、「かたち」を似たやうに働かせるのは難しいやうです。


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