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第15章 持續の感情

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「持續」と訳された言葉は durée です。辞書では次ぎのやうな意味が並んでゐます。

  1. (日常的)ある現象との関係で、観測される二つの区切り(始めと終わり)の間に過ぎ去る時間。
    • 用例:la durée d'un spectacle 劇の長さ
  2. (哲学的)生きられた時間。互いに溶けあひながら続く心理状態の性質。

ここでは勿論、後者の意味です。かうした時間についての見方はベルクソンが『意識の直接与件について』のなかで詳しく分析してゐます。

私がアランらしいなと感じるのは、この章の最後の段落で、純粋な主体は眠りや無意識に落ちると注意してゐるところです。そして、切り離すと同時に一緒にすることが哲学の難しさだと言ふ。これを読むと「パスカルの「パンセ」について」(昭和16年)の次の一節を思ひ出します。アランが尊敬したデカルトを、パスカルは無用にして不確実だと否定してゐるのですが。

「人間とはなにか、一體、何といふ怪物であるか。何といふ珍奇、妖怪、混沌、何といふ矛盾の主、何といふ驚異か。萬物の審判者にして愚鈍な蚯蚓(みみず)。眞理の受託者にして曖昧と誤謬(ごびう)の泥溝。宇宙の榮光にして廃物。誰がこの縺(もつ)れを解くだらうか」
 言ふ迄もなく、これが「パンセ」の主題だが、パスカルの音樂は主題だけで出來てゐる。縺れがいよいよ解き難いものとなる樣に、さういふ樣に考へて行く事。縺れが次第に解けて行く樣に考へるやり方は、サイクロイドにはよいだらうが、怪物には駄目である。

この章の小林訳には、あまり疑問点はないやうに感じます。ただ、いくつか気になるところはある。例へば第2段落の後ろの方にかういふ部分があります。

このたつた一つの反省が、殘りの部分を幾分明らかにして、殘りの部分と一體となつて新しい現在の運動を形成する、

ここで「運動」と訳された言葉は、Pléiade 版では moment で、この段落の最後にも出てくる「瞬間」を意味します。運動は普通 mouvement です。これは小林秀雄が見間違へたのかと思ひましたが、或いは、小林秀雄の読んでゐた本と、私が参照してゐる Pléiade 叢書のテキストには差があるためかも知れません。つまり「運動」と「瞬間」の差は、前者の誤植を後者では訂正したためなのかも知れない。

少なくとも、いくつかの点で両者のテキストが違つてゐるのは、確かです。例へば小林訳ではいくつかの言葉、この章では「時間」がゴチックになつてゐますが、Pléiade 本では強調はされてゐません。また、以前、柳澤さんにご指摘頂いて分かつたやうに、Pléiade 本の「序言」のテキストには、本来あるべきではない二つの段落が紛れ込んでゐる。

小林秀雄の誤訳だと極めつける前に、テキストの比較が必要だと思つた次第です。残念ながら、手元には小林秀雄が読んだであらう本はないので、確認はできないのですが。

といふ注意をした上で、一つだけ書いておくと、最初の段落に

時間の本能的な認識は、常に規則的連續の或る考へとともに何かの敎育の助けを假定してゐる

といふ文があります。教育と訳された言葉は institution で、確かに教育といふ意味もあり、小学校の先生は instituteur といふのですが、ここでは制度といふ意味に取る方が良いと私は思ひます。


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